◎ジェイド・タブレット-05-34
◎青春期の水平の道-33
一休禅師が地獄太夫に逢うの一段。
『一休和尚が堺の浦にお越しになったとき、旅人相手の旅籠に美しい女があった。その女は一休であることに気づくと、一首の歌を詠んで送り申し上げた。
(出家の身である以上)俗塵を離れて山居するならば、深い山の奥に住むのがふさわしいでしょう。ここはまさしく憂き世の『堺』と聞いているから。
(山居せば 深山の奥に住めよかし ここは憂き世の堺と聞くに)
一休和尚の返歌
一休は我が身を塵ほどに思わないので、人々の雑踏する市も、人気のない山住まいも全く変わらない住処であることよ。
(一休が身をさほどに思わねば 市も山家も同じ住処よ)
とお詠みになると、「この女はただ者ではない」とお思いになり、「一体どういう素性の女であるか」と尋ねたところ、「あれこそ世間で評判の地獄という名の遊女である」と申し上げると、和尚すぐさまお詠みになった歌
かつて人づてに聞いていたよりも、見るとはるかに恐ろしい地獄であることよ。
(聞きしより 見て恐ろしき地獄かな)
地獄太夫返歌
死んでくる人で、この地獄に落ちないものはございません。
(しにくる人のおちざるは無し) 』
(般若心経抄図会/一休和尚全集第四巻/春秋社より引用)
遊女地獄太夫の最初の歌は、「坊さんであるならば、このような汚れ果てたこの世の地獄の一丁目のようなところにいらっしゃるものではないのに、それでもこのようなところにいらっしゃるのですか」というような気持の歌である。
これに対し一休は、「禅僧にはもとより肉体などないので、苦界(売春宿)も山の寺も同じ住処であることに変わりはない」字義どおりならこの程度の解釈だが、
この問答の本質は、「一休ほどの高僧が、どういうつもりで売春宿にセックスしに来るのでしょうか」という問いかけに対し、一休が「セックスを楽しむのも禅僧の自由自在なありようの一つである」と返歌しているところである。
いわゆる禅道修行の中で情交は当然禁止であり、このような一休の生き方は修行という面では問題とされるが、既にすべてを見切った一休の世界の中では、一休が性愛冥想を楽しむというのも自由自在な人間の自然な行動となる。
そこで一休は、この女ただ者ではないと見たわけだ。
最後の地獄太夫の返歌も心得ており、一休が求道的禁欲を超えた立場であることを知り、人間はいつかそうした性愛そのものを「いのちの流れ」の中で、心ゆくまで楽しまない者はいないと同じ立場に立った歌となっている。
一休の性愛を謳った歌は数多い。あからさますぎて、ブログに書くのも恥ずかしいのがある。「大燈国師の法事(忌日)の読経の声が寺全体に聞こえる中で、一休は寺の一室の中に女性を連れ込んでセックスを楽しんだ。こんな具合だと、睡魔と闘うために錐で身(太もも)を突き刺した中国の禅僧慈明の故事の生真面目さを笑ってしまう。」という漢詩まである。しかし、求道者のことをばかにしているので不謹慎と思われても、それを超えた世界を生きる一休がある。