◎ジェイド・タブレット-06-05
◎青春期の垂直の道-5
◎自由な石屋さん、錬金術、キリスト教
◎イエス出現の成果はキリスト教に限定されない
自由な石屋さん、錬金術、キリスト教については、次のような印象を持っている。
紀元前からグノーシス、ユダヤ教、錬金術というのは、中近東から西に存在していた。これらは、いわゆるアトランティス密教から派生した宗教と見られ、風土や時々の聖者の出現によって、しばしば路線変更が見られた。
アトランティス密教についていえば、プラトンがソロンという神官からアトランティスのことを聞いたことで当時のアレクサンドリアの図書館にアトランティス密教の精華が残っていたらしいことが想像される。
紀元前5世紀頃、ソクラテスは只管打坐型の悟りを実現し、プラトンは、クンダリーニ・ヨーガ型の悟りを実現したことがプラトンの著作でわかる。学者さんが哲学だと言っているから哲学だと思っている人が多いが、彼らは古代ギリシアの冥想修行者である。つまり二人は、それぞれ顕教系と密教系の悟りを継承していたのだ。
イエス・キリストは、ユダヤ教の中から出てきたが、悟り候補者である以上宗派の垣根を越えて他宗派も注目し、誕生時には馬小屋に三人の博士(マギ)も集まったほど。
ダンテス・ダイジは、イエスはユダヤ教エッセネ派の中から出て来たと見ていたが、イエスは、超能力を使いまくり、クンダリーニ・ヨーガ系であるユダヤ教の継承者として存命中は活動したことがわかる。
だが当時、グノーシスも8天球という形で正当な悟り(ニルヴァーナ)を見ており、錬金術もユダヤ教と一体となった形でユダヤ教の中にあったのだろうと思われる。
最初の錬金術師としてゾシモスやマリア・プロフェティサが出たのが3世紀。マリア・プロフェティサは、ユダヤ人でありユダヤ教から出たと考えるのが自然だろう。心理学者ユングは、ゾシモスの文書を冥想法に関するものと見ており、マリア・プロフェティサの片言『一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとして全一なるものの生じ来るなり』も冥想に関するものなのだろうと思う。
なおマリア・プロフェティサは物理的な錬金術の器具を発明したとされるが、中国でも漢代において物理的な錬金術である外丹は既に行われていたので、錬金術が中近東オリジナルと見ることはできない。
おそらく、グノーシスとユダヤ教の密教的(クンダリーニ・ヨーガ的)な部分が混交して錬金術という形になったのではないか。
4世紀にキリスト教がローマ帝国で公認された一方でその後、ユダヤ教とグノーシスの密教的部分は次第に衰退し、イスラム教の中に取り込まれる形で、15世紀までの長い胚胎の時期を過ごした。15世紀以降にユダヤ人が欧州各地に散って行く中で、その密教的部分に触発された運動が17世紀の薔薇十字の運動。それは自由な石屋さんの流れになっていくのだが、なぜかユダヤ教と違うシンボリズムを用いている。
勿論欧州域内では、ホイジンガの中世の秋に見るように、信仰としては安定的だったキリスト教の背後で密教的な物も時々ガス抜きをしつつ醸成されてきたところも無視できない。
薔薇は真理の象徴であり、石もまた真理の象徴であり、自由な石屋さんが薔薇のシンボルを用いるのは、真理たるニルヴァーナを標榜するまともな宗教なのだろう。
自由な石屋さんというのは、キリスト教神秘主義だの、西洋錬金術だの、新プラトン主義の流れを汲むものだと言われる。だが、17世紀頃さるドイツかなんかの覚者(薔薇十字団)が、21世紀の至福千年実現に向けて、それら密教的なものを再編成して自由な石屋さんというものとして始めたのではあるまいか。
一方で顕教的なキリスト教は、観想法あるいは只管打坐的な瞑想法を中心に今までどおりがんばっているわけだ。
出口王仁三郎は、基本は猶太批判を行わず、昭和神聖会の時代と第二次大本教事件前夜のみにおいて批判。ダンテス・ダイジも、自由な石屋さん側にもちゃんと悟った人間がいると見ている。
一方で歴史学者トインビーの唱えるように文明の根幹は、宗教であって、宗教が衰退すればその文明は滅亡する。近代西欧文明とは、キリスト教をバックボーンとする宗教文明であって、キリスト教が衰退滅亡すれば、近代西欧文明は終わる。
また自由な石屋さんのたくらみは、特に最近においてどんどん露見していっているのだろう。そのたくらみ群は陰謀論とひとくくりにされて論じられることも多い。
全体として見れば、イエス出現なくしては、自由な石屋さんもなかったのだろうと思う。
注目すべきは、OSHOバグワンは、薔薇十字団は、イエスのエソテリック・グループだと見ていること。エソテリック・グループとは、何代も続く高弟達の聖者護持のチームで、他にアショカ王の九秘密会が知られる。
第二次世界大戦は、一般に米英連合国対日独伊三国同盟の大戦と見られているが、キリスト教勢力(石屋系)対仏教勢力の角逐だったと見ているスピリチュアリストもいる。
