◎ジェイド・タブレット-05-38
◎青春期の水平の道-37
◎親鸞の法は天下一なり
自戒集によれば、長禄元年(1457年)の冬至に、紫野大徳寺の兄弟子養叟のやり口があまりに出鱈目なことに憤慨して、一休宗純は、法華宗(念仏門)に入信したと明記がある。
更にこの著名は、一休宗純ではなく、「法華宗純」となっていて、本気の改宗であることのダメ押しとなっている。一休は63歳にして禅宗を捨てた。
(一休和尚禅宗第三巻 自戒集・一休年譜/春秋社P254)
このあたりから蓮如との交流が始まり、一休68歳の時、親鸞上人200年遠忌にあたり、大谷本廟に招待された。一休は、蓮如に請うて親鸞聖人の画像をもらい受け、次なる賛をつけた。
『末世相応のこころを
襟巻のあたたかそうな黒坊主
こいつの法(のり)は天下一なり』
親鸞の法が天下一であるとお墨付きを与えたのだ。
ダンテス・ダイジはこの改宗の原因について、「禅の結跏趺坐と念仏の姿勢を比べてみれば、どちらが楽な姿勢かわかるだろう」と解説している。悟りに至る冥想法としては、禅のように知で押し詰める冥想と自分をオープンにして感情の高まりで行く冥想と比べれば、情で行く念仏の方が人間心理に与えるインパクトが大きいから容易だと言っているように思う。
ただし、ダンテス・ダイジは、念仏やお題目などのマントラ念唱の効果は、直接窮極を目指しているものではないという意味で本来限定的であることを示していることも忘れてはいけないと思う。
更に一休は臨終に際して、弟子に遺言するには、「念仏の中陰(四十九日の法要)を蓮如にしてほしい」と。遺言によって、一休の弟子は蓮如上人に念仏を頼むのだが、蓮如はこれを断って曰く、法は現身に説くものであって死んでからでは意味がない、と。
一休の改宗は、今の禅宗の人にとっては外聞の良いものではないだろうからあまり世間では言わない。漫画にも、一休が南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とやっているところは出て来ないのではないか。
一休道歌
成仏は異国本朝もろともに 宗にはよらず心にぞよる
彼は、このように宗派なき冥想を体現していた。
一休は、ニルヴァーナという体験とは言えない体験を経て、その悟りを持って生きた。まるで十牛図の第10図の徳利を持って町を歩くおやじの姿だが、そのように、男色女色など一見破戒僧の生き様を見せながら、覚者であることは踏み外さなかった。
これは日本に禅の覚者は多数出ているとは雖も破格で例外的なことであった。21世紀のアクアリアン・エイジの現代人はそのように生きるべきである。
一休は、日本で神から最も離れた時代の一つである応仁の乱の時代を生きた。神は、そうした時代にはかならず神人(アヴァタール)を下し置かれるものであって、一休もその一人。応仁の乱の影響は古神道にも及び伊勢神宮も遷宮のできない120年余りがあったほどであった。