◎ジェイド・タブレット-05-37
◎青春期の水平の道-36
◎マーヤとしての現実
マーヤは幻想。あらゆるものは、すべて滅び、あるいは死ぬ。だから現実とはマーヤでもある。そういう真相を知る人があるかと思って、人気のない仏堂に籠って一夜を眠れぬままに明け方になって、まどろんだ。
その夢の中で仏堂の後ろに行ってみたら多くの骸骨たちがいて、その振る舞いは別々であって、まるで生者のようだと見ていると、ある骸骨が歩み寄って詠むには、
思ひ出の有るにもあらず 過ぎ行かば
夢とこそなれ あぢきなの身や
(何か特に思い起すこと(求道)がないままに一生を過ごしてしまえば、夢のようなものである、味気ないこの身よ)
仏法を神や仏に別かちなば
真の道にいかが入るべき
(仏法を本来一つである神道と仏教に分けてしまえば、真(まこと)の道に入ることはできない)
しばし げに息の一筋(ひとすじ)通う程
野辺の屍(かばね)もよそに見えける
(わずかの間でも本当に息の一筋が通っている間(生きている間)は、野辺に晒されている死骸もよそよそしく思えたことだ)
さて死の世界に分け入り、
このように骸骨と親しく慣れ遊ぶうちにその骸骨は、まるで自分となったかの如く世を捨て僧となり諸方の経典を調べ、善知識たちを訪問しまくり、我が心の源を明らかにした、と思えば、夢から覚め、松風の音と月の光が残るばかりであった。
邯鄲の夢風に叙述しているが、主題を出世競争に明け暮れる一生から究極を求める冥想修行に置き換えている。そこで、現実という夢から覚めるというのは、どういうことなのだろうか。一休は、二重の現実感を生きている。