◎世の終わりからみろくの世の始まりまで
(2021-10-27)
大本神歌は、出口王仁三郎のものを平素から読み慣れていないとやや読みにくいかもしれぬ。例によってこの手の文は、三様の意味にとれる言葉が並ぶものだ。
全体として、大正(大正6年12月1日)から世の終わり、みろくの世の始まりまでを韻文で描いている。大意をつけてみたものの、そのとおりかどうか。
(大意)
世界各国は、日本以上に軍備を強化し、海中空中、地上地中に兵器を配備し、日本に昔日の軍事大国の面影はない。とりわけアメリカのミサイルについては、国民に注意を呼び掛けていたが、馬耳東風で聞く耳を持たなかった。
戊の、午の春夏秋に懸け(戊午ではなくて、戊と午が分かれているところがヒントか。)、皆散り散りに潜水艦と空襲に逃げ惑う姿が哀れである。
(原文)
『大本神歌(一)
東雲の空に輝く天津日の、豊栄昇る神の国、四方に周らす和田の原、外国軍の攻難き、神の造りし細矛、千足の国と称えしは、昔の夢と成りにけり。
今の世界の国々は、御国に勝りて軍器を、海の底にも大空も、地上地中の撰み無く、備へ足らはし間配りつ、やがては降らす雨利加の、数より多き迦具槌に、打たれ砕かれ血の川の、憂瀬を渡る国民の、行く末深く憐みて、
明治の二十五年より、露の玉散る刃にも、向ひて勝ちを取らせつつ、猶外国の襲来を、戒しめ諭し様々と、神の出口の口開き、詔らせ給へど常暗の、心の空の仇曇り、磯吹く風と聞流し、今の今まで馬の耳、風吹く如き人心、
アア如何にせん戊の、午の春夏秋に懸け、心落ち居ぬ荒浪の、中に漂ふ苦しみは、神ならぬ身の知る由も、なく泣く縋る神の前、水底潜る仇艦と、御空に轟ろく鳥船の、醜の荒びに悩まされ、皆散り散りに散り惑ふ、木の葉の末ぞ哀れなり。』
(大本神歌/出口王仁三郎から引用)