◎ジェイド・タブレット-13-9
◎冥想自在-9
◎冥想自在の構造-9
◎救いなどない絶望の極みから愛が開ける
愛とは、慈悲のこと。大慈大悲のこと。愛とは、とてもとても悲しいということ、悲しみの極み。
好きだ嫌いだの愛情と、愛とは違う。愛が悲しみであるということはダンテス・ダイジの胸のアナハタ・チャクラの説明に出てくる。
『ステップ4.
すべてが自己である愛・慈悲
大いなるすべてのものに対するいとおしさ
すべてが一体であるという感謝
底知れぬ生命の絶望と悲しみ』
(「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」/ダンテス・ダイジ/森北出版P120から引用)
愛が極まる超能力とは、他心通なのだろう。
人間には七つのチャクラに配当される属性があるが、なぜ愛だけが推されるのだろうか。
『ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ』の只管打坐の章は、二段に分かれている。最初の段は、高校不登校で毎日真っ暗闇だったダンテス・ダイジが、古代ローマの殉教映画クオバディスか何かを見ている際に、愛という言葉が胸に響くと同時に、人間もあらゆる万物も絶対的に救われないという悲しみがやってきた。気が狂ったように泣いた。涙はとめどなく溢れてきた。
万物の決定的絶望の極みの中で、その時万物万象を含む愛が開かれた。
この時自然に坐り、これが只管打坐の姿勢となった
只管打坐の章なのにニルヴァーナである身心脱落を説かないのは、変だと思った人は多いと思う。二段目に身心脱落を説いてはいる。
愛を開く、人間も万物も救われない悲しみを感得するというのは、現代人として、この地獄的文明生活を越えて一歩出るということ。
オカルティストは、地球の課題は、マニピュラ・チャクラである欲望満足・自己実現からアナハタの愛に進むことだと説明するのだが、人類滅亡を回避するためには、力、自由、安心など下位三チャクラに力点を置くことはやめて、アナハタ以上の三チャクラ主体で進まねばならない。
出世競争や武道などで丹田強化(スワジスターナ・チャクラ)が言われるが、この時代の丹田強化は、争闘強化と人類滅亡を促進する面が強い。よって、「愛」をことさらに言わねばならなかった。
また身心脱落では、クンダリーニ・ヨーガの窮極と同様に七つの身体を上昇するが、急速に起こるために、本人が「愛」などを通過した自覚がない場合があるという。身心脱落では七チャクラそれぞれの属性に対応する悟りが起こっているはずであって、「愛」だけ起こっているはずはないということ。
イエスは、十字架上で大悟する以前は、未悟だったが、ひたすら愛を説いた。ユダに銀貨30枚で売られ、愛弟子ペトロに知らんぷりされるという裏切りに遇っても、ひたすら愛、自分がまだ神人合一していなくてもひたすら愛。
こうした義の教師の生きた姿を深く感じた古代ローマ人と西欧人はまことに見る目があった。
こうしてイエスは、愛への時代2千年を支配した。今は各人が自分で愛を知る時代。
以下にダンテス・ダイジの箴言4つを挙げる。
『【オカルティックに】
この中有界タイプの世界文明は、
20世紀末に終わる。
現代文明とは、マニピュラ・チャクラとアナハタ・チャクラとのバルドのことである。
欲望満足と『愛』との上下運動のことである。
文明の終末なぞ、別にどうということはない。
この世のあらゆるものは産まれ生き死ぬ。
呼吸は、出息で死に入息へと再生する、
入息は終り出息が始まる。
そのように、あなたは死ぬのだ!
おお、限りなく愛しいマーヤよ!
六道のつじよ!
さようなら・・・・
すべては、あなたのためにあるのではない。』
(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)
※バルド:中有
※マーヤ:迷い、無明
『現実として、一切万象の中に単独として存在しているものはない。
重要なのは、 万象の一体性が、絶対愛だということにある。 』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP 137から引用)
『本当のこの世との一切の別れは、
本当にこの世のすべてを理解するのは、
あなたが、あなたの肉体の頭部の光の智恵に導かれて、
限りない道の広がりへ出てゆく時である。
つまり、あなたは、
唯一の限りない出会いと一瞬一瞬に
別れを告げているということなのだ。
それが愛の始まりであり、
それが愛の終わりなき終わりなのだ。 』
(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジP56から引用)
『真実の愛は、
絶体絶命なる虚無性を、 極め尽くさねばならない。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP 110から引用)