アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

偽のサマーディに気をつけよう

2022-10-28 06:54:31 | 無限の見方・無限の可能性

◎サマーディとは個人の体験ではない

 

サマーディとは三昧のことであり、ディヤーナ=定とは全く異なる。定は人が出たり入ったりできるが、

サマーディは人が体験するものではないので、サマーディに出たり入ったりすることはできない。

 

サビカルパ・サマーディ(有相三昧)は、いわば世界全体のことであって、個人ではないので出たり入ったりするというのはない。

 

ニルビカルパ・サマーディ(無相三昧)は、ニルヴァーナのことであって、個人ではないので出たり入ったりするというのはない。

 

だから世間でサマーディに入るとか出たとか言っている場合は、眉唾物の可能性があると思う。

 

大雑把に言えば、水中でサマーディは抱朴子の葛玄、火中でサマーディは慧春尼、標高7千メートルの低酸素低温の高地でのサマーディは崑崙山脈の仙人

封鎖洞窟でのサマーディはチベット密教の修行者たちがあり、水中火中土中などいろいろな悪条件下のサマーディはあるものだと理解はしている。

 

だが、苛酷な条件下で冥想することがサマーディではないだろう。つまり、既に神人合一して、宇宙全体が自分と一体となり『宇宙が自分だった』という実感にあっては、『サマーディに出入りする』などという表現はしないものであり、またなにもかもないニルヴァーナにあってもそれを『サマーディに出入りする』という言い回しはしないのではないだろうか。

 

かつまた葛玄も慧春尼も、水中に何日いたから偉いとか火中に何時間いたから偉いとは思っていないのではないか。そういった苛酷な条件の冥想継続時間をサマーディとはいわないのだろう。

 

肉体からそのエッセンスの状態に往復する時間は、私の印象では、せいぜい数秒なのであって、数時間とか数日は、エッセンス・タイムではないと思っている。

 

苛酷な条件の冥想時間の話ではないが、OSHOバグワンは、偽のサマーディについて詳しい説明を残してくれている。多くの人が偽のサマーディに騙されている可能性はあるのではないか。

 

『理解しておくべき、見せかけのサマーディもひとつある。それは第四身体で起こり、サマーディのように見えるが、そうではない。日本の禅僧の言葉によると、それは「さとり」だ。これは見せかけのサマーディだ。それは、画家や彫刻家や音楽家が、完全に芸術の中に没頭している時に到達する状態だ。彼らは大いなる至福を体験する。これは第四身体―サイキックな 次元―で起こる。朝の太陽を眺めたり、メロディーに耳傾けたり、ダンスを見たり、花が咲 くのを眺めたりしている時、マインドが完全に出来事の中に引き込まれると、見せかけのサマーディが起こる。こうした見せかけのサマーディは、睡眠や偽りのシャクティパットによっても、引き起こされる。アルコールや、マリファナ、LSD、メスカリン、ハッシシなどの麻薬によっても引き起こされる。』

(奇跡の探求Ⅱ/和尚/市民出版社P414-415から引用)

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人と神仏を結ぶもの

2022-10-28 05:46:53 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎【第一章】冥想とは何か

◎人と神仏を結ぶもの

 

『人と神仏を結ぶものが冥想である。これにより人は真人間になり、善のみを行い悪を行わない人間に生まれ変わる。』

 

日本人の生活には、年末年始の寺社参拝があり、節分、春秋のお彼岸の供養、お盆の墓参り、赤ちゃんのお宮参り、七五三、車両のお祓い、更にはイースター、ハロウィン、クリスマスと黙って生活していれば、神仏とつながっている実感を持てる風俗習慣となっている。

 

その一方で、国民全体の貧困化と核家族化により、人は孤立を深め、経済的メリットと便利ばかりを追求する姿が当たり前とされる地獄的な社会が展開されるようになっている。

 

こうした中で、人は本来愛に生きるものであって他人を傷つけることなどできはしないという実感に生きるものである。そんな人間が真人間であるが、そうなるには、ある絶対的な意識の極限状態を経て、善のみを行い悪を行わない人間に生まれ変わることが求められる。

 

このあらゆる正誤とりまぜた情報、意識を操作するテレビ、スマホなどに日夜正気を脅かされている生活の中で、人と神仏のつながりを確かめては暮らすためには冥想が必要である。

それは最初はまねびで入るが、やがて大輪の花となって咲くことになる。

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定と三昧の違いと冥想十字マップ

2022-10-27 18:50:20 | 密教neo

◎昼と夜のサイクル根本テキスト

 

これは、チベット密教ゾクチェンのテキスト「昼と夜のサイクル根本テキスト」の一部。

『13 修行を確立するにあたっては、融合、放松、進歩という

三つの秘訣によって道を進む、

(最初の)融合のための方法は、快適な座にゆったりすわりリラックスして、前方の空間に心を向け、一体になることだ。

 

14 気を散らすこともなく、何かを対象にして瞑想するのでもないような境地にとどまる。

認識は、まるで大空のように、愛着や執着から離れている。

本来の境地は、光明であり、明知であり、驚愕の瞬間のごとく静寂と運動の区別をこえている。

不二なる明知が、赤裸々に生じる。

 

15 禅定においては、朦朧とした状態(昏沈)や興奮(放逸)におちいることなく、

透明にして明晰、深遠な本来の境地にとどまる。

この本来の境地にあって、思考を呼び出し、投げ捨て、反復し、増幅させても、

不動の(境地の)まま、みずからの土台にとどまることによって、自然に解脱する。』

(チベット密教の瞑想法/ナムカイ・ノルブ/法蔵館P57-58から引用)

 

最終の15で解脱しているからには、その『禅定』は自分が残っている状態ではない。この本では、三昧に入るとか出るとか、自分が三昧に入ったり出たりするように書いているのだが、そもそも『定』と『三昧』は別物であり、『定』には、入る自分、出る自分がある。一方、『三昧』には既に自分はないのだから入る自分出る自分もない。

 

ヨーガでは、定と三昧は截然として区別されている。13はいわゆるファッション冥想であって、のんびりしているが、15ではのっぴきならない『三昧』に至っている。

 

ダンテス・ダイジの冥想十字マップの横軸は、有想定、無想定、愛、有相三昧、無相三昧の5段階に分けられ、無相三昧とはニルヴァーナのこと。これを念頭にこうしたテキストを読むべきであり、並列的に13-15があると考えると紛れるように思う。

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冥想十字マップ-2

2022-10-27 18:47:22 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎チャクラと七つの身体への対応

 

ダンテス・ダイジの冥想の縦軸は、以下の7段階である。ダンテス・ダイジは、この冥想十字マップにおいて、直接に、各段階がチャクラと七つの身体に対応しているなどとは語っていないが、総合的にはそのように考えざるを得ないのである。

 

何の前提もなく、いきなり、『人間の精神性の七つのレベル』として、意志だの情熱だのという概念語が並べられたら、それはそのままでは、一個人の単なる人間像のプロファイルのアイディアを表明しただけにしか思えない。ところが各チャクラの性質と、七つの身体のシンクロを思い起こすと次のような説明になるのだろうと思う。

 

勿論こうしたものは、本来、自分自らそれを見渡せる冥想に入り、確認してみるべきものだとは思う。

 

1.力、渇望

これは、チャクラでは、ムラダーラ・チャクラに対応し、ムラダーラ・チャクラは、七つの身体で言えば肉体に照応している。

 

2.意志

これは、チャクラでは、スワジスターナ・チャクラに対応し、スワジスターナ・チャクラは、七つの身体で言えばエーテル体に照応している。

 

3.情熱

これは、チャクラでは、マニピュラ・チャクラに対応し、七つの身体で言えばアストラル体に照応している。

 

4.愛

これは、チャクラでは、アナハタ・チャクラに対応し、アナハタ・チャクラは、七つの身体で言えばメンタル体に照応している。

 

5.調和

これは、チャクラでは、ビシュダ・チャクラに対応し、ビシュダ・チャクラは、七つの身体で言えばコーザル体に照応している。

 

6.知恵

これは、チャクラでは、アジナー・チャクラに対応し、アジナー・チャクラは、七つの身体で言えばアートマンに照応している。

 

7.ニルヴァーナ

これは、チャクラでは、サハスラーラ・チャクラに対応し、サハスラーラ・チャクラは、七つの身体で言えばニルヴァーナに照応している。

 

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冥想十字マップ-1

2022-10-27 18:44:19 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎定とサマーディ(三昧)の違い

 

ダンテス・ダイジの冥想の横軸は、以下の4段階であるが、無想定と有相三昧の間に「愛」が挟み込んであるところが特徴。しかし、ダンテス・ダイジは「愛」を一つの段階と定義してはいない。冥想の横軸が冥想の縦軸と交わる交点として、愛を位置づけているところが特徴である。神(仏)と個人の結節点(結び)として愛を見ているのである。合気道家植芝盛平のいうところの天の浮橋の位置である。

 

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版p188から引用)

 

1.有想定

ヨーガ・スートラで言う有尋定とほぼ同じであり、仏教でいう欲界定や四色禅定のこと。要するに欲界定と初禅から第四禅までのことである。

幸福感、安心感、清らかさなどの肯定的な情感を感じることができる。

 

2.無想定

ヨーガ・スートラで言う無尋定とほぼ同じであり、仏教でいう四無色禅定のこと。

(1)空無辺処定:限りない広がりがあるという意識    

(2)識無辺処定:あらゆるものが限りない広がりにあるという意識

(3)無所有処定:なにもかもがないという意識

(4)非想非非想処定:なにもかもがないという意識もないという状態

 

3.有相三昧

ヨーガ・スートラで言う有想三昧とほぼ同じであり、仏教でいう滅想定のこと。ダンテス・ダイジは、「一切万象、多様次元自身が目覚めている。」と説明している。

 

4.無相三昧

ヨーガ・スートラで言う無想三昧とほぼ同じであり、仏教でいう涅槃(ニルヴァーナ)のこと。 

 

ダンテス・ダイジの説明は次のようなもので、滅尽定(滅想定)とニルヴァーナを区別している。

「仏教なんぞの滅尽定でもない。

禅なんぞの無でもない。

隻手の音声なんぞ夢のまた夢

ヨーガの解脱なんぞでもない。

 

いわゆる概念的には、ニルヴァーナのことだが、真のニルヴァーナは、いかなる概念内容も持っていない。」

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス.ダイジ/森北出版P193から引用)

 

 

 

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臨死からの生還とその後の死

2022-10-27 18:31:31 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎全身虚血と再灌流症候群

 

一般に一度死んでから生還した者の多くが、蘇生措置を受けた数時間後か数日後に再びあるいは三度死ぬという。

 

これは、クンダリーニ・ヨーガの究極の起きる条件が、心停止と呼吸停止であることからすると、やや不都合な事象である。死んでから生還することを臨死体験と呼ぶが、臨死体験をしたからといって、そのほとんどの人が神に出会うかというと、それはどうもその逆である。

 

更には、クンダリーニ・ヨーガは、死の世界を窮めるからして、死を体験するのは当然だが、クンダリーニ・ヨーガの窮極に際しては、人はしばしばこの世界に戻る必要性を感じず、そのまま生の世界に戻らない人もいるらしい。それではこの世に何の寄与もしないし、本人のためにもならないではないかと考える人もいるかもしれないが、そうした絶対光明、ニルヴァーナというものは、人間の都合を優先に考えてくれるものでもないことに思いを致すべきだろう。

 

1972年ソ連の科学者ウラジミール・A・ネゴフスキーは、蘇生して生還した人に特有の二つの病気を指摘している。一つは、全身虚血であり、全身性の酸素欠乏。もう一つは、再灌流症候群であり、通常なら細胞を生かす酸素が、逆に細胞の死を早める物質に変わること。

 

サム・パーニアは、この全身虚血と再灌流症候群を避ける手段は、死の時間が非常に短かった場合と医師の正しい介入の二つを挙げる。実際問題として、いわゆる体験とは言えない体験後のこの二つの蘇生後症候群を避けるには、死の時間が非常に短いことを神に祈り、またグルがタイムリーに適切に対応することが必要なのだと思う。

 

冥想修行のグル、師匠が医師免許を持っているとは限らないので、グルの適切な対応を可能ならしめるのは、グルが修行者の危険な状態を見抜き適切な対応をとれるほどの力量あるクンダリーニ・ヨーガの達人であることが条件となる。

 

クンダリーニ・ヨーガというのは、その意味でも文字通り死の修行であり、だからこそ社会的に問題とされがちなところがあるから、密教なのだと思う。

 

また蘇生術の本には宇宙飛行士はしばしば宇宙で死にかけ、あるいは実際に死に、あるいは生還した場合でもその過酷な(死にかけた?)体験がトラウマになることが多いことも書いてある。先日テレビで日本人宇宙飛行士山崎直子さんが、宇宙飛行士の訓練は予期せぬ突発的な事象に対応していく過酷な内容が多いと語っていたが、宇宙飛行士は生還してもPTSDにもならず閉所恐怖症でもない人間を選抜して送り込むのだろうと想像された。宇宙飛行士は、目的こそ異なれ、生死を賭している点では特攻隊にも似ているように思う。

 

出口王仁三郎は、6度死んだが、その1回については、呼吸も心拍もあったが身体も動かず口もきけずで、鼻に松葉を焦がした煙を吹き込まれるなど、蘇生にひどく苦労したエピソードが残されている。他の五回については、サポート神霊の指導を得たのか自分で対応したのかはしらないが、とにかく生還してきた。

 

最近何でも情報公開すれば良いみたいな風潮があるが、軍事、インテリジェンスと並んで、死の技術あるいは密教系の情報には、公開されてはならない情報がある。

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【Overview of the meditation 冥想の全体像】

2022-10-27 06:38:05 | Overview of the meditation 冥想の全体像

◎冥想のてほどき

 

【第一章】冥想とは何か

人と神仏を結ぶものが冥想である。これにより人は真人間になり、善のみを行い悪を行わない人間に生まれ変わる。

 

【第二章】神仏と冥想の関係

1.神仏は天国と地獄の先にある。

2.悟る仕方は三種、神仏に憑依される、神仏を見る、神(仏)人合一。

3.現代人はすぐに悟れる。

4.見神と神人合一は異なる

5.見神が起きても、何が起きたかわからないということがある。何が起きたかわかるには準備が必要

6.肉体が死んでもほとんどの人は悟らない。悟りは起きているが何が起きたのかはわからない人が大半。

7.死後の輪廻転生はマンツーマン輪廻といえるとは限らない。

 

【第三章】冥想の動機

1.神仏とつながることが動機となる。

2.冥想には、効果や目的を求める冥想と効果や目的を求めない冥想の二種がある。

3.見神、神人合一を目指すには、効果を求めない冥想、目的を求めない冥想に専念することが必要。

 

【第四章】冥想の準備

1.柔軟体操

2.食事・嗜好品

3.呼吸法

4.マインド・コントロール対策

 

【第五章】冥想の種類

◎単体冥想の評価と方法
1.前提

冥想の分類にはいろいろあって、例えば目的や効果を求める冥想、それらを求めない冥想という分類もあり、また宗派別冥想という区分もある。宗派別冥想は、伝統的組織宗教では、複数の冥想手法を組み合わせたものがほとんどであり、「冥想の種類」を説明する材料としてはわかりにくいことになる。

よって、冥想手法をバラバラに分解すると次の3のようなところになる。

2.注意事項

(1)一つの冥想法で最後まで行きつける人は多くはないのではないか。名だたる冥想フリークはいろいろな冥想法を次々に変えてチャレンジを繰り返している場合が多い。

(2)あらゆる冥想には、廃人になったり、精神障害になったりする危険な面も伴う。よって一人で自分勝手にやるのは危険。正師につくこと。

3. 単体冥想のいろいろ
(1)イメージ・トレーニング(観想法)

(2)気功、導引

(3)ハタ・ヨーガ

(4)カーマ・ヨーガ(性愛冥想)

(5)ソーマ・ヨーガ(薬物冥想)

(6)占星術

(7)マントラ禅

(8)只管打坐

(9)クンダリーニ・ヨーガ

(10)丹田禅

 

【第六章】正師の見分け方

1.自分が悟っていなければ、正師の見分けがつかない。

2.正師は、お布施は受け取るが教授料はとらない。

 

【第七章】冥想に取り組む姿

1.迷いのままに坐る

2.混乱している状態でも坐る

3.冥想する気分にならなくても坐る

4.世界観の二重性

 

【Overview of the meditation 冥想の全体像-リンク】

【Overview of the meditation 冥想の全体像】(冥想のてほどき)

人と神仏を結ぶもの(人と神仏を結ぶものが冥想)

神仏は天国と地獄の先にある(神仏は天国と地獄の先にある)

悟る仕方は三種。神仏に憑依される、神仏を見る、神(仏)人合一(悟る仕方は三種)

現代人はすぐに悟れる(現代人はすぐに悟れる)

見神と神人合一は異なる(見神と神人合一は異なる)

見神が起きても、何が起きたかわからないということがある(何が起きたかわからない)

肉体が死んでもほとんどの人は悟らない(肉体が死んでもほとんどの人は悟らない)

死後の輪廻転生はマンツーマン輪廻といえるとは限らない(マンツーマン輪廻)

神仏とつながることが冥想の動機となる(神仏とつながる)

冥想には、効果や目的を求める冥想と効果や目的を求めない冥想の二種がある(効果や目的を求めない冥想)

見神、神人合一を目指す(効果を求めない冥想、目的を求めない冥想)

柔軟体操(柔軟体操)

食事・嗜好品(食事・嗜好品)

呼吸法(呼吸法)

マインド・コントロール対策(マインド・コントロール対策)

単体冥想の評価(前提と注意事項)

イメージ・トレーニング(観想法)(イメージ・トレーニング(観想法) )

気功、導引(気功、導引)

ハタ・ヨーガ(ハタ・ヨーガ)

カーマ・ヨーガ(性愛冥想)(カーマ・ヨーガ(性愛冥想))

ソーマ・ヨーガ(薬物冥想)

占星術

マントラ禅

只管打坐

クンダリーニ・ヨーガ

丹田禅

自分が悟っていなければ、正師の見分けがつかない(正師との出会い)

正師は、お布施は受け取るが教授料はとらない(正師の見分け方の基本)

迷いのままに坐る

混乱している状態でも坐る

冥想する気分にならなくても坐る(生きていれば、いやなことはあるものだ)

世界観の二重性(二重のリアリティ、二重の現実に生きている)

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死の際の幽体離脱

2022-10-26 19:28:07 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎霊になっても孤独は変わらず

 

死のプロセスについては、四国のリモート・ヴューアーがバス転落事故の死者たちの死のプロセスを描写した丹波哲郎の「霊界旅行」も見てみたい。

 

丹波哲郎の「霊界旅行」で紹介されている事例は、光の存在に導かれて、バスが崖から転落した事故で死んだ25名のあの世での一人一人の消息を追う様子を描写して、霊界、地獄界の実情を明らかにしようというもので、霊界好きの人には恰好の読み物になっている。

 

日本霊異記からスウェデンボルグ、霊界物語まで、霊界紹介ものは数多いが、その手っ取り早い位置づけは、「人間は肉体オンリーの存在である」という先入観を払拭するヒントになるということ。

 

というのは、霊界にあっても、人間は個人としての霊から抜けられない。つまり霊界においても、自分は他人とは別であるという実感が変わらないからである。自分が他人とは別である限り、神と人とは実は同一である、という自覚は絶対に起こらない。

 

さてバスから転落した一女性の死の推移を某氏は、リモートビューイングした。

 

『ふと気が付くと、彼女のつぶれた肉体から淡い煙のような、蒸気のようなものがモヤモヤ立ち昇っていました。そしてその煙ようのものは、そこでグルグル渦のような運動をしながら、灰白色の球のようになりました。

 

さかんに活動するその灰白色は光を放ちながら、次第に濃縮して密度を増しているのに、その容積は反対に大きくなるんです。

 

そしてこの煙のような蒸気の如き物質がたえず彼女の横たわった肉体の方から供給されているのでした。

 

この肉体から放出される煙状の流れは、直径10センチ位で、空間にかかる球は徐々に大きくなり、かつ変形しつつ、ついには五十センチ、1メートルと大きな卵形となりました。

 

淡灰白の半固体状で、さかんに活動しているうちに、次第に人間らしい各部分ができかけてきました

 

まず腰部、そして首のあたりと、やっと人間のかっこうになってきたんです。

 

僕が目を見張って驚いているうちに、いつも見なれている南川弘子の完全な姿になったのです。彼女は事故の前と少しも変わらない姿で浮かんでいました。』

(霊界旅行/丹波哲郎/中央アート出版P95-96から引用)

 

これは、肉体外へのアストラル体の形成というようなものだろうと思うが、死はこのように進んでいくのである。

 

この光景をリモートビューイングした人は25人の死者全員を見たようだが、それだけでも相当な練達の士であると思う。彼は死者たちが、あの世で人生全体のパノラマ再生を大画面で見るところまで確認したのだった。

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チベット死者の書での死-2

2022-10-26 19:24:28 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎本物の死のプロセス-2

 

呼吸が止まって、心臓も止まったところから、肉体と意識が分離する直前までです。

 

2.内なる溶解

(5)80の概念からなる粗いレベルの意識がすべて溶解すると『鮮やかな白い心』(まばゆい光にあふれた秋の空)が現れてくる。(顕明)

 

※80の概念からなる粗いレベルの意識とは、五感と五感よりやや深い程度の、思考を伴う粗いレベルの意識。五感、恐怖、執着、飢え、渇き、喜び、驚きなど。

 

(6)『鮮やかな白い心』とそのプラーナ(ルン、気)が溶解すると、『鮮やかな朱色の心』が現れる。真っ赤に輝く太陽のように見える。(増輝)

 

(7)『鮮やかな朱色の心』とそのプラーナ(ルン、気)が溶解すると、『鮮やかな黒い心』が現れてくる。次第に真っ暗闇になる。(近得)

 

(8)プラーナ(ルン、気)の動きが弱まって、もっと微細なプラーナが起きると、失神したような状態は消え去り、まばゆいばかりの透明な光、もっと微細な『光明=原初の光、一切空』が現れてくる。

 

これは、別名母の光明と呼ばれる。これとは別に観想法の修行(イメージ・トレーニング)によって類似の窮極のイメージを培っている場合があるが、これを子の光明と呼ぶ。そして母の光明に子の光明を合致させることが、チベット密教の修行の目的になっており、これは空を悟る高い意識とされている。

 

この段階は、意識のポジションが肉体から出ていないことが特徴である。なんとなれば、肉体と意識の分離はこのあとで発生するからである。

 

従ってここで見ている母の光明とは、窮極(中心太陽、神、仏)の属性を見ていると考えられる。換言すれば、『原初の光』は、窮極(中心太陽、神、仏)そのものではないかと考えられる。

 

『原初の光』はチベット密教最大のポイントである。

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チベット死者の書での死-1

2022-10-26 19:20:47 | エクスタシス 夢の夢なるneo

◎本物の死のプロセス-1

 

まず最初は、五感の感覚がなくなり、呼吸が止まるまでのプロセスです。これは、ゆっくりと死が訪れる場合は、どんな人にも平等に起こる部分です。

 

ただし意識がはっきりしていること(清明であること)、肉体をメンタル体で離脱することが、この後のプロセスで『原初の光明』(神、仏、窮極)に出会い、何が起こったかを知る絶対条件となるように思う。

 

1.四元素と五感の溶解

 

(1)地の元素が衰え、水に溶け込む。(陽炎)

身体から力が抜けぐったりする。

視界が暗くなって、ものの輪郭がぼやけ、目を開けることも閉じることもできなくなる。

陽炎のようなものが見える。

 

(2)水の元素が衰え、火の元素に溶け込む。(煙)

快さも苦しみも感じなくなる。

唾液がでなくなり、口、喉がかわく。

音も聞こえず、耳の奥のかすかな耳鳴りも止まる。

漂う煙が見える。

 

(3)火の元素が衰え、風の元素に溶け込む。(蛍)

生前善行が優位の人は、下半身が最初に冷たくなる。生前悪行が優位の人は、上半身が最初に冷たくなる。   

匂いを嗅ぐことができなくなる。

呼吸が苦しくなり、吐く息がだんだん長くなり、吸う息がどんどん短くなる。

鍋底で光る火花のようなものが見える。

 

ソクラテスも下半身が最初に冷たくなった。ソクラテスは、人が何人かいる前で、毒を飲まされて、死のプロセスが進行している最中に、『まだ足に感覚はありますか』などとテレビの突撃レポーター並の取材を受けているのだから、お気の毒としか言う他はない。(プラトン/パイドン)

 

(4)風の元素が衰え意識に溶け込む。(燈明の炎)

身体を動かすことも、肉体的な接触も感じられなくなる。

鼻を通る息は、止まります(呼吸の停止)が、エーテル体の息はある。

燈明や松明の炎のようなものが見える。

 

呼吸が止まれば心停止するので、(4)は、世間で言う死のこと。でも続く以下の記述を見ると身体反応はできないけれど、意識は残っている。

 

※『チベット死者の書での死』で参考とした本

『ダライ・ラマ 死と向き合う智慧』地湧社

『三万年の死の教え』中沢新一/角川書店

『チベット死者の書』講談社

『チベット生と死の書』ソギャル・リンポチェ/講談社

『ゲルク派版チベット死者の書』学研M文庫

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本気と精神パワー

2022-10-26 19:15:56 | 只管打坐neo

◎教えてくれなくてありがとう

香厳は、師匠の大潙禅師に『父母未生以前の境地を体得して、一句もってこい』と命じられたが、できなかったので、長年集めた書物をすべて焼き捨て、寺の食事の給仕役をして年月を過ごした。

 

ある時香厳は、師匠の大潙禅師に、とても体得することができそうもないから教えて下さいと頼んだところ、大潙禅師は「私がお前のために教えてやるのはやぶさかではない。しかし、もしそうしたらお前は後で私をうらむであろう。」

という問答があり、後年香厳がその境地を体得した時に、「あの時教えてもらっていれば、このような喜びはなかった」とその配慮に感謝している。

 

この話は、単純に、回答を教えてもらえば、達成した時の感動が小さくなるという話ではない。

人生という問題に取り組むために冥想するとして、どの程度本気になれるかというのは、冥想修行では常に問題となるが、その本気度を高いままに維持するためには、回答をタイムリーに教えてもらってはならない。教えてもらうとその緊張が解けてしまって本気度が落ちてしまうことを言っている。

 

われわれが必死の力でもって、冥想するのは、精神的なパワーが後押しする場合であって、冥想の終着駅である窮極について知的概念的理解をした場合は、冥想に向けるパワーが低下するのだと思う。ここはあくまで、窮極まであと一歩と迫った香厳に対するアドバイスの話であるが、冥想と縁遠い普通の現代人に対しては、やや様相が異なるものの本気パワーの話題としては共通する。

 

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本山博の神様とのコンタクト

2022-10-26 19:12:23 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎その体験を見ている自分

 

本山博の最初の神様とのコンタクトは、20歳くらいの時。

 

本山博は、戦時中、鉄道の大きなレールみたいなものの先を尖らせて、それを吊るして、10人くらいで山の岩を掘ってトンネルを掘る作業をしていた。

 

そうした合間に、彼が一週間ほど前に亡くなった義弟が成仏するように壕のトンネルの中で一生懸命お祈りをしていたら、急に回りが光ったというか彼の身体も多分光った。その時に本当に神様とつながりができた。これが最初の神様とのコンタクト。

 

2回目は、最初の体験から7年くらい経って、二十四、五歳の時で、ヨーガを初めて1~2年経った時。この時に神様はこういう方で、自分の役目はこうで、自分はどういうところに神様によって上げられたかということが自覚できたそうだ。

(出所:神秘体験の種々相2/本山博/宗教心理出版P144-145)

 

霊がかり気味だし、体験とは言えない体験とまでは言えないかも知れないが、神様とのコンタクトは起きることは起きたのだろう。

 

ただそれをきちんと自覚して、評価するまでは、何年もかかることがある。評価するためには、「見ている自分」を冥想によって養っていくということが必要なのだろうと思った。

 

こういう話を率直にできる本山博氏は極めてフランクな人である。フランクなのは覚者の特徴ではある。

 

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原初の光について

2022-10-26 07:17:24 | アヴァターラ神のまにまに

◎起きることは起きたが、何が起きたかはわからなかった

 

肉体が死ぬと原初の光が発生する。以下の文では、原初の光のことを根源の光明と訳しているが、改めてその性質を見てみる。

 

『これまでに説明したように、心身の一切の構成要素は、死の過程で崩壊していく。肉体が死ぬと、五感や微細な四大元素が溶解し、さらには心のなかの通常の相が、怒り、貪り、無知といった煩悩とともに断たれる。こうして今世で悟りの心を覆っていたものがすべて取り除かれると、心の真の在りようを妨げるものは何ひとつなくなり、雲ひとつない澄みわたった空にも似た、根源なる究極の本質が顕れる。

これを「根源の光明がたちのぼる」という。ここにおいて意識そのものが法界へ、遍在する真理の空間に溶け込んでしまう。『チベットの死者の書』にはこの瞬間のことがこう述べられている。

 

一切の本性は虚空(そら)のように、空(くう)であり、さえぎるものなく、赤裸々である

中央も周辺もない、光り輝く空性そのものである

清浄にして、赤裸々な明知(リクパ)がたちのぼる。

 

またパドマサンバヴァは光明についてこう述べている。

 

始めの始めより生じることなき光明

おのずと生まれでた光明は、それ自体父母を欠いた明知の子供-―なんと驚くべきことか

誕生を体験することもなく、死の因を內包することもない――なんと驚くべきことか

明らかに見えるのに、誰一人見ることができない――なんと驚くべきことか

 輪廻のなかを彷徨(さまよ)いながら、なんら害をこうむらない――なんと驚くべきことか

仏性そのものと逢いながら、なんら益をこうむらない――なんと驚くべきことか

どこにも、誰のなかにも存在しながら認識されることはない――なんと驚くべきことか

にもかかわらず、あなたはこれ以外の果をどこか別の場所で得ようとする――なんと驚くべきことか

あなたのなかのもっとも本質的な部分であるにもかかわらず、別の場所にそれを求める――なんと驚くべきことか』

(チベット生と死の書/ソギャル・リンポチェ著/講談社P425-426から引用)

 

この説明によれば、原初の光とは、父母未生の自分であり、本来の自己であり、宇宙全体であり、アートマン。つまり呼吸停止、脈拍停止して、肉体死が完成した時に、神仏を見るのだ。これは解脱への最大のチャンスである。

 

ところが、ソギャル・リンポチェは、「原初の光が立ち昇るのがすなわち悟りだという説を唱える者もいるが、そうではない。何が起きたかを把握できて初めて悟りなのだ。」というニュアンスのことを述べている。つまり、起きることは起きたが、何が起きたかはわからなかった場合があるということ。イエス来臨を毎日願っている人の許に、ある早朝イエスが降臨したが、当の本人は眠っていて気づかなかったのと同じ。

ここが、死んだ人すべてが悟るわけではないということ。

 

 

ソギャル・リンポチェは、微細にして広大な深みと絶対的な無限さをとらえるだけの準備ができていないと取り逃がすと言っている。

 

大量死が起こる時、人は、発狂・自殺するか、退行するか、大悟するかの三種に分かれるというが、誰の死のプロセスにおいても、解脱、大悟のチャンスは平等に訪れる。しかしながら、それをゲットできるのは、事前の準備ができていた者に限られるのだろう。

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古事記言霊解通読-4

2022-10-25 16:57:17 | 古神道の手振りneo

◎黄泉比良坂の坂本は世界の根源

 

伊弉冊命は、黄泉醜女に加え、八種の雷神と千五百の黄泉軍も加勢して跡を追わせた。伊弉諾命は、十拳剣を抜いて、後手に振りながら逃げ、なるべく戦わない姿勢を見せつつ退却を続けた。

 

黄泉比良坂の坂本は世界の根源。ここで伊弉諾命は、三個の桃の実を取って投げたところ、黄泉軍は初めて壊走したのだった。

 

伊弉諾命は、桃の実の功績に感じ、桃の実に対し、意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと)という名を与え、また世界人民が苦難の時になったら助けるように命じた。

 

実に現代は黄泉比良坂の、善悪正邪治乱興廃の別かれる大峠の上り口である。

最後に伊弉冊命が自ら追ってきた。これぞ神軍と魔軍との戦いの分水嶺。

 

伊弉冊命は、黄泉比良坂に千引岩(ちびきいわ)を立てて、正神国と邪神国との交通を完全に分断し、毎日千人の命を取ってやると言い放った。これにより、従来の正邪混交の時代は終了し、この世の人民は立て分けられる。

 

伊弉諾命は、それに対抗し、一日に千五百(ちいお)の産屋(うぶや)を立てると宣言した。

 

千五百(ちいお)産屋(うぶや)とは、大神に対する赤誠の精神を持つグループのこと。彼らが中心となって、物質肉体優先の世界観を排し、霊的文明の導入を図る。とは言ってもそれは、いわゆる霊主体従主義思想・イデオロギーの伝播ということでなく、個々人がすべて神を知る体験を有するのだから人間の一側面が霊であることが当たり前に思う人間たちでの出来事であることに注意が要る。

 

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石あるいは黄泉の国の境にある千引岩

2022-10-25 16:52:29 | 古神道の手振りneo

◎石は「真」のシンボル

 

出口王仁三郎の石についての論。

石は、黄泉の国の境に千引岩を置いて、黄泉の国の悪の侵入を断ち切った故事で知れるように、所在(あらゆる)虚偽と罪悪と醜穢を裁断する所の神力の備はつたものと絶賛している。まことに石は「真」のシンボル、木や花などの植物は愛のシンボルですね。

 

『因に石といふものは、真を現はすものである。そして、所在(あらゆる)虚偽と罪悪と醜穢を裁断する所の神力の備はつたものである。

 

神典古事記にも、黄泉平坂の上に千引の岩をおかれたのは、黄泉国の曲を裁断するためであつた。人間の屋敷の入口に大きな岩を立てて、門に代用するのも外来の悪魔を防ぐためである。また家屋の周囲に延石を引きまはすのも、千引の岩の古事にならひ悪魔の襲来を防ぐためである。

 

築山を石を以て飾るのも神の真を現はすためであり、また悪魔の襲来を防ぐためである。そして所在植物を庭園に栽培するのは愛を表徴したのである。

 

人間の庭園は愛善の徳と信真の光を惟神的に現はした至聖所である。故にこれを坪の内とも花園とも称するのである。天国の諸団体の有様は、すべて美はしき石を配置し、所在植物を植ゑつけられた庭園に類似したものである。

 

それから石は砿物であり玉留魂(たまつめむすび)である。故に神様の御霊を斎るのはいはゆる霊国の真相を現はすもので、月の大神の御神徳に相応するが故に、石の玉を以て御神体とするのである。

 

これ故に霊国の神の御舎は皆石を以て造られ、天国は木を以て、その宮を造られてある。木は愛に相応し、太陽の熱に和合するが故である。

 

大本の御神体が石であつたから、何でも無い神だと嘲笑してゐるそこらあたりの新聞記事などは、実に霊界の真理に到達せざる癲狂痴呆であつて、新聞記者自らの不明を表白してゐるものである。

 ああ惟神霊幸倍坐世。』

(霊界物語 第52巻15章千引岩から引用)

 

山水画とは、神なる石や岩と愛なる木で構成されているわけだ。

 

※玉留魂とは;

『火水抱合して一種の固形物体発生し、宇宙一切を修理固成するの根元力となる。これを常立神といひ、剛体素といふ。神祇官所祭の玉留魂これなり。金、銀、銅、鉄、燐、砂、石等はこの玉留魂を最も多量に包含し、万有一切の骨となり居るなり。この剛体素、玉留魂の完成するまでに太初より殆ど五十億年を費しゐるなり。』(霊界物語第6巻1章宇宙太元から引用)

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