アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

クリシュナムルティ-5-otherness他性

2023-11-02 07:14:18 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-11

◎青春期の水平の道-10

 

クリシュナムルティの冥想では、2、3日に一回はotherness(他性)が発生する。otherness(他性)が発生する都度、想念停止と世界全体の感知つまり、いわゆるカトリックでいうところのエクスタシー(恍惚)が起こっているのだろうと思う。

この起こり方は、向こうから自分にやってくるものであって、来るが如し、如来とはこういうものかと思う。

身心脱落という窮極は、せいぜい一生に一回しか起こらないものだが、otherness(他性)が発生する都度、呼吸停止、脈拍停止が起きているのかという疑問は残る。そうとは思えないので、クリシュナムルティで起こっているotherness(他性)とは、想念停止と有相三昧が頻繁に起きているということなのだろう。

一旦身心脱落が起これば、そういうことがあり得るのか。

 

以下にクリシュナムルティの神秘体験(J.クリシュナムルティ/めるくまーる社)という本からotherness(他性)の例をいくつか挙げてみる。水平の道を生きる生き方の一つはこういう状態なのだろうが、われわれは、しょっちゅう恍惚に入っていては、社会的活動ができないものだから、少なくとも一日に30分は冥想してotherness(他性)に立ち返りつつ、家事や子育てや仕事をしていくというのがあるべき水平の道のライフ・スタイルだと思う。

 

例1

『テラスの上には幾輪の花があり、今朝はとりわけ黄色の花が以前にも増して明るく勢いづいていた。早朝の光の中で、その花は他のどの花にも増して目覚めており、豊かな色彩を備えているように見えた。東の方はしだいに白み始め、あの他性(アザーネス)が部屋の中にあった。それは数時間そこにあった。真夜中に目覚めた時、それは思考や想像力によっては決してもたらし得ない、何か完全に客観的なものとして、そこに存在していた。』

(上掲書P185から引用)

 

例2

『昨日の午後、騒々しい通りを見下ろせる部屋の一室で、それは突然始まった。他性(アザーネス)の力と美はその部屋から広がってゆき、表通りに広がり、庭園を過ぎ、かなたの丘陵を超えていった。それはそこにあって、広大で入り込むことができなかった。それは午後にもそこにあって、床に就こうとした時、すさまじい強烈さ、大いなる聖性の祝福と共にそこにあった。それに慣れ親しむことはできない。というのもそれは常に異なり、常に何か新しいもの、新しい性質、微妙な意味合い、新しい光、何か以前には見たことのないものがあったからである。それは気軽に蓄積し、記憶し、検査し得るようなものではなかった。それはそこにあり、思考によってそれに近づくことはできなかった。というのは頭脳は静止し、経験し蓄えるべき時間というものは存在していなかったからである。それはそこにあり、いっさいの思考は静止した。

生の強烈なエネルギーは、昼夜いつもそこに存在している。それは摩擦、方向、選択、努力などとは無縁に存在している。それはあまりにも強烈にそこに存在しているため、思考と感情は己の空想、信念、経験、要求に応じてそれを形作るためにそれを捉えることはできない。それは満ち溢れながらそこに存在しているので、何ものもそれを減少させることはできない。だが、私たちはそれを利用しようとし、方向づけ、私たちの存在の型の中にそれを捉え込み、そうすることによって、私たちの様式、経験、知識に適応するようにそれをねじ曲げるのである。』

(上掲書P213-214から引用)

 

例3

『背の低い松や、黄や茶色に紅葉し始めた多くの樹々と、湿った土の香りのする〔ヴィッラ・ボルゲーゼの〕庭は、騒々しく臭気に満ちた町の真ん中にあるのだが、その中をある厳粛さに包まれながら散歩していた時、他性(アザーネス)の自覚があった。それは壮大な美と優しさを伴っていた。人がそれについて考えていたということではなく―――それはいっさいの思考を拒否していて――-それはあまりにも満ち溢れていたので驚きと歓喜を引き起こした。思考の厳粛さは非常に断片的で未熟だが、欲望の産物ではない厳粛さというものがなければならない。その本質が透過であり、曇りなき光であるような光の性質を備えた厳粛さというものがそこにある。この厳粛さは限りなく柔軟で、従って喜びに満ちたものである。それはそこにあって、あらゆる樹と葉、あらゆる草の葉と花は強烈なまでに生き生きとして輝き出した。色彩は強烈で、空は測り知れず広がっていた。この大地、湿り気、点々と散った落ち葉、それが生であった。』

(上掲書P219-220から引用)

 

例4

『物音ひとつなく、まだ町が眠りから醒めぬ夜明け前であった。他性(アザーネス)がそこにあったため、目覚めた頭脳は静かになった。瞳はまだまどろんでいたため、それは極めて静かに、ためらいがちに用心をしながら到来したが、言い尽くしようのない歓喜、途方もない純真さと純粋性の歓喜があった。』

(上掲書P221から引用)

 

例5

『奇妙で思いもかけぬ瞬間に、他性(アザーネス)は突然不意に、招くことも必要もなく到来し、そして去っていった。それが存在するためには、いっさいの必要性と要求が完全に止まねばならない。』

(上掲書P199から引用)

 

otherness(他性)とは、思考停止、想念停止、いまここであるが、このように歓喜と厳粛と力強さがある一方で、欲望と無縁である。

またotherness(他性)は、ある空間に存在しているものの、あらゆる空間に遍満しているという描写でなく、ある空間にだけ存在している風な描き方をしているが、どの空間に存在しているかは、『無作為』であるのだろう。『無作為』であって全体的に見ることができる(上掲書P196)。『無作為』は作為の反対語として用いられている。

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クリシュナムルティ-4-クリシュナムルティの只管打坐の勧め

2023-11-01 07:11:33 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-10

◎青春期の水平の道-9

 

クリシュナムルティは、次の引用文の中で、冥想を勧めてはいる。だが、マントラ(念仏、題目、オームなど)の反復や、ヴィパッサナーなどの呼吸法や、心をある一つの考え方に固定する方法を是認しない。

迂回せず、直接そのものになっていく冥想は只管打坐しかないから、クリシュナムルティは、只管打坐を推奨していると考えられるのである。

 

『こうした問題に対する回答を知る道-それは瞑想である。この瞑想という言葉は東洋においても西洋においても、極めて不適当に使われている。瞑想についての考え方や方法はまちまちである。

「足の指の動きを見守り、決してそれから目を離さずにいつまでもそれを見守ることだ。」という流派があるが、また別の方法では、ある姿勢をとって規則正しく呼吸するか知覚を実行するのが瞑想だとしている。

すべてこういった方法は機械的な方法である。

また、ある言葉をいつまでも繰り返すことによってまったく超自然的な経験を味わうことができると教える方法もある。

これは一種の自己催眠法であり、まったくばかげた方法である。反復によって心は平静になるのであるから、アーメンとかオーム、もしくはコカ・コーラといった言葉を繰り返していれば何らかの経験を持つようになるのは明らかである。これは何千年もの昔からインドで行われている有名な現象-マントラ・ヨーガである。

反復によって、心を静かな柔らかい状態にすることはできるが、その心がとるに足りない狭小で浅薄な心であることに変わりはないのである。

庭で拾った一本の棒きれを暖炉の上において、毎日その前に花を捧げることだってできよう。一カ月もすれば、あなたはその棒切れを礼拝するようになり、花をその前に供えないのが罪であるように思えてくるであろう。

 

瞑想とは何らかの方法を行うことではない。何かを反復したり模倣したりすることではないのである。瞑想は注意集中でもない。心をある一つの考え方に固定し、それ以外の考えをすべて心から追い払うといった注意集中について弟子に学ばせようとするのは、瞑想を教える人たちが好んで使う手ほどきの方法の一つである。

こんなばかげたつまらないことなら、学校の生徒でも強制されればそのとおりにやって、のけることができるのである。一方で一つのことに心を集中し、他方では他のさまざまなことに心を奪われるといった矛盾した状態に心をおくことであり、心がいろいろのことを思い浮かべるときに、その心の動きを注意していなければならないということである。心が一カ所に落ち着いていないということは、心が他のことに興味を抱いているということである。

 

瞑想を行なうのに必要なのは、きわめて機敏な心である。瞑想は人生の全容を理解し、すべての断片的な存在を捨てさることである。瞑想は思考を統御することではない。なぜなら、心を統御するときには、それによって心の中に不一致が生じるからである。しかし、いままで見てきた思考の構造と起源を理解すれば、思考はもはや妨害をしないのである。思考の構造を理解すること自体がその規律-瞑想となるのだ。

瞑想は、あらゆる思考、あらゆる感情を自覚することであって、その善悪を断定しないでそれをただ見守り、それと行動を共にすることである。 そうした注視の中で、あなたは思考と感情の全体の動きを理解するようになる。 そして、この自覚から沈黙が生まれる。思考によってつくられた沈黙は沈滞し生気を失っているが、思考の起源とその性質を理解し、思考というものはすべて自由ではありえず、常に古い存在であることを十分に理解したときに生まれる沈黙は、瞑想者がそこに存在しない瞑想である。 それは心が過去から完全に脱却したからである。

本書を初めから終りまで注意深く読めば、それが瞑想することである。だが、二、三の言葉だけをとり上げ、二、三の考えだけに注意を払って後でそれについて考えるというやり方では、それは瞑想とはならない。瞑想とは、何かをその一部だけでなく全体を完全な注意を払って見つめる心の状態である。

注意をどのように払うかは、だれにも教わることはできない。もし何らかの方式がそれについてあなたに教えるとしても、あなたはその方式に気をとられてしまうから注意を払っていることにはならない。

瞑想は人生における最も偉大な芸術の一つである。おそらく、それは最も偉大な技術であろう。それについて他の何人からも教わることはおそらく不可能であろう。それがまた、その美点なのである。それはいかなる技法も、またいかなる権威ももたない。 あなたが自分自身について学び、自分自身を見つめ、自分がどんなふうに歩き、どんなふうに食べ、どんなふうに語るかを見つめ、ゴシップ や憎しみや嫉妬を見守るときに、そうしたことをすべて自分自身の内部で自覚すれば、それは瞑想の一部となるのである。』

《自己変革の方法/クリシュナムーティ/霞が関書房P240-244から引用》

 

この中の『思考の起源とその性質を理解し、思考というものはすべて自由ではありえず、常に古い存在であることを十分に理解したときに生まれる沈黙は、瞑想者がそこに存在しない瞑想』(上掲書から引用)が只管打坐を指す。瞑想者がそこに存在しないとは、自分がないということであって、水平の道で言えば、有相三昧、無相三昧

ただし、この説明の直前に『瞑想は、あらゆる思考、あらゆる感情を自覚することであって、その善悪を断定しないでそれをただ見守り、それと行動を共にすること』(上掲書から引用)とあるが、これはクンダリーニ・ヨーガ型の冥想だが、実際には只管打坐による身心脱落の結果、『あらゆる思考、あらゆる感情を自覚する』ということが起きるのだろうと読むのだろうと思われる。

                       

なお、ヴィパッサナーなどの呼吸法の体系は、釈迦がそれによって成道したと言われるほどなので、窮極に至る手段の一つであることは間違いないと思うが、それも否定する。

一念集中法だって一念集中が極点に到達して、その圧力が抜けた空虚の瞬間に、頓悟(突然真実のものに気がつくこと)などが発生するのだが、それも避けるべきだとする。

棒切れを崇拝の対象とすることだって、19世紀インドの聖者ラーマクリシュナが寺院の石造りのカーリ女神像を神そのものと見て崇拝しまくってニルヴァーナに至ったのに、それすらノーという。

クリシュナムルティは、神智学出身なのに、クンダリーニとかチャクラとか高級神霊とか一言も言わないので、クンダリーニ・ヨーガ肯定でもない。従って、直接、マントラとか呼吸法などの方便なしにいきなり本当の自分に出会う冥想手法とは、只管打坐しかないと主張していると推定されるのである。

挙句に正師のアドバイスまで否定している。これでは、素直にこの本を読んでは、その冥想法が只管打坐だとわかることは至難である。この本自体が正解のない公案になっているとも言えるが、真理とはそういうものなのだろう。

クリシュナムルティが、晩年に誰も自分の事績を理解しなかったと嘆いた理由もわかる。だがその嘆きは、かえって人類全体の嘆きでもある。

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