アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

天の露あるいは天の精気-2

2023-11-14 20:20:38 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-02

◎天の露-02

◎旧約聖書の創世記


旧約聖書の創世記で、老いて盲いたイサクが、長男のエサウに財産と家督を譲るため、鹿の肉をとってきて食べさせてくれと命じた。
これを横で盗み聞きしていたエサウの弟ヤコブは、母と語らって鹿の代わりに山羊の肉を調理して、エサウになりすまして父イサクに食べさせ、まんまとイサクから財産と家督を譲る祝福を得た。

その祝福の言葉に天の露が登場する。
『「ああ、わが子のかおりは、
主が祝福された野のかおりのようだ。
どうか神が、天の露と、
地の肥えたところと、多くの穀物と、
新しいぶどう酒とをあなたに賜わるように。
もろもろの民はあなたに仕え、
もろもろの国はあなたに身をかがめる。
あなたは兄弟たちの主となり、
あなたの母の子らは、
あなたに身をかがめるであろう。
あなたをのろう者はのろわれ、
あなたを祝福する者は祝福される」。』
(口語訳旧約聖書1955年版創世記27章27~29節)

弟に出し抜かれたエサウは、祝福をやり直して、改めて家督をエサウに与えるように父イサクに懇願するが、イサクは応じず、エサウに対し以下の冷たい予言を行う。
『「あなたのすみかは地の肥えた所から離れ、
また上なる天の露から離れるであろう。
あなたはつるぎをもって世を渡り、
あなたの弟に仕えるであろう。
しかし、あなたが勇み立つ時、
首から、そのくびきを振り落すであろう」。』
(口語訳旧約聖書1955年版創世記27章39~40節)

天の露もて覚醒に至る必要のあったのは、イサクの部族ではイサク一人で良かった当時のこと。今みたいに全員が覚醒すべしという時代のことではない。当時は覚者こそが部族リーダーであり、大祭司だったわけだ。これにより、部族で天の露を受けるべきは一人で良しという発想があるのだと思う。
ただし、ヤコブが父イサクを欺いた咎めは将来に起こるだろう。このような綾あるいは傷は、古伝承にはありがちな伏線である。

もし天の露が物質的なもののシンボルであれば、それは「地の露」と表現されただろう。
ここは、精神であり、聖と俗の聖の方であるから、天の露である。ゆめゆめ世俗の願望を実現するネタが天の露だなんて考えてはいけない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天の露あるいは天の精気-1

2023-11-14 20:07:22 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-01

◎天の露-01

◎沈黙の書

 

錬金術書「沈黙の書」では、天の露あるいは天の精気とは、天の精気を集めて、何かを為そうとするための原材料=第一質料=プリマ・マテリアである。

天の精気は、春分・秋分の水とも呼ばれ、「沈黙の書」第四図では、大地にソーラー・パネルよろしく大型の布を何枚か水平に張り、天から落ちるかそけき天の精気を布に染み込ませ、この布を男女一対の錬金術者が搾って鍋に集めようとしている。

シレジアの説教師ザムエル・リヒターは、「未分化の「宇宙の種子」を得てこれを塩のうちに固定せねばならない。」とし、その粘質の精気(露)の中心に事物の種子たる集中的核心がひそかに存在しているのだが、この種子を塩として得るならすべてが達成されると述べた。

リヒターはこの塩から至上にして不可思議なものが生じるがこれぞ再生と不死の像であるとも言っている。

これに似た言い方は古神道にもある。離遊の運魂を招きて身体の中府に鎮むるってやつである。魂が一つであると何となく思いがちなのだが、天の精気を無数の離遊の運魂と見れば、沈黙の書における天の精気と同じようなことイメージしているのではないかと思い当る。

天の精気あるいは天の露については、聖書にも言及がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松尾芭蕉-1-求道

2023-11-14 03:34:45 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-17

◎青春期の水平の道-16

 

松尾芭蕉は、元は伊賀上野の侍で、俳句の師匠となってから、禅に参じて見性までした。彼が大死一番すなわちニルヴァーナに入ったという逸話はないものの、残された俳句のいくつかに大死一番を経て生きる覚者特有の気配があるので、それを、孤独、今ここ、わび・さび・あわれ、無常・臨終に区分して挙げてみる。彼は、俳句の道の一道専心者であり、俳句を超えて行った。

 

(1)松尾芭蕉の出自

松尾芭蕉は、1644年伊賀拓殖の地侍の松尾家に生れたが、松尾家は平家の末流。芭蕉は、幼少より神童と謳われ、伊賀上野の五千石の侍大将の長男藤堂良忠に料理番のお小姓として召し抱えられた。 

1666年藤堂良忠が没し、6年間伊賀上野にいて、1672年29才の彼は、俳諧で身を立てることを決意して、江戸に入ったとされる。伊賀拓殖は忍者の里としても知られる。

江戸に入って後は、小石川水道工事の設計に携わった功績を認められ、(武士なのに)町人別となることを許され、1680年深川六間堀に住むことを許されたという。

芭蕉は、小石川水道工事を4年やって突然やめて深川に隠棲したが、それは、将軍が綱吉に交代した影響のようで、深川の鯉の池の番屋での俳諧の点者暮らしはいかにもつまらなかったのであろう。

 

(2)芭蕉の見性(古池真伝)

松尾芭蕉は37歳の時、深川芭蕉庵で出家して、仏頂和尚に印可(悟りの証明)を受けた。俳句を詠むというのは、容赦のない現実に直面するという禅の現実認識の姿勢とは、一見相容れないところがあるように見える。そうした心境において、一種の歌心というべき心の余裕がないと俳句は詠めるものではないと思う。

さて仏頂和尚が、字は読めないが禅機鋭い六祖五兵衛居士を伴って、深川の芭蕉庵を訪れた。

六祖五兵衛は門をくぐって、芭蕉の顔を見るなり、

「庭の草木の中に仏法はありますか。」と問いかけた。

芭蕉は即座に「葉々は、大なるものは大であり、小なるものは小である。」と答えた。

今度は仏頂和尚が、

「この頃の調子は、どうだい」と問うと

芭蕉は、

「雨が過ぎて、青苔を流している」と答えた。

更に仏頂和尚が「青苔がまだ生えないで、春雨がまだやって来ない時はどうする」と畳みかけると

その時ちょうど一匹の蛙が庭の古池に飛び込んだ。

芭蕉は、

「蛙飛び込む水の音」と答えた。

 

仏頂和尚は、これを聞くと、にっこりと微笑み、持っていた如意を与え、芭蕉の悟境を認める偈を与えた。

本分無相(本来の自己に相はない)

我是什麼者(私は、言葉では語れないそのものズバリである)

若未会為汝等諸人下一句子(もしあなたがたが、もう一句に出会っていなければ)

看看、一心法界法界居一心 (ちょと見てみなさい。一心は法界(真理・実相のこと)であり、法界は一心である)

その様子をつぶさに見ていた門人たちから、お祝いを述べるとともに、嵐雪が「これでは、冠の句がありません。どうぞ五文字をつけて下さい。」と申し出ると、

 

芭蕉は、「それでは貴方がたの意見を聞いてから決めよう。ためしに上の句を行って見てください」

杉風は 「宵闇や」、

嵐雪は 「寂しさや」、

其角は「山吹や」、と出したが、いずれも平生の句より出来がよいが、どれも芭蕉の気にいらなかったので、自ら

 

古池や 蛙飛び込む 水のおと

 

に決めた。

(参考:禅門逸話選/禅文化研究所)

 

(3)芭蕉の師仏頂和尚のこと

一休の狂雲集も相当な禅的学識のほとばしる作品であるが、芭蕉の俳文集も相当に禅的素養がないときちんと読み込めないように思う。片言切句に、禅の故事などが散りばめられているからである。

芭蕉の師仏頂和尚は、常陸郡鹿島郡札村の人。32歳で鹿島根本時住職となり、鹿島神宮との所領争いの調停のため、江戸深川の臨川庵にしばしば滞在。この頃、松尾芭蕉と師弟の関係となったようだ。

おくのほそみちで下野の国黒羽に芭蕉が、仏頂和尚が庵を結んで修行した旧居を訪問する件りがある。仏頂和尚が、その狭い庵住まいの時に

「竪横(たてよこ)の五尺に足らぬ草の庵

むすぶもくやし雨なかりせば」という歌を炭で近くの岩に書きつけたと聞き、この旧居跡を訪ねてみたのである。庵は、谷沿いの道をはるかに進んだ雲巌寺の奥にあり、岩屋を背にして、石の上に小さい庵が作ってあるのを、後ろの山の上から見つけた。

これを見て芭蕉は、南宋の原妙禅師は、杭州天目山の張公洞に入り「死関」の扁額を掲げて15年間出なかったことなどを思い起こした。

 

木啄(きつつき)も庵はやぶらず 夏木立

 

夏木立のしんと静まりかえったなかにきつつきの音だけが響いている。庵の姿が往時と変わらないことに芭蕉の時間を超えた静謐さを感じさせる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界的な赤いオーロラ

2023-11-13 03:19:39 | 吉凶禍福、占い、癒し

◎世界戦争と疫病の予感

 

2023年11月5日、6日にかけて、ウクライナ、ルーマニアなど欧州のイタリア以北や、アメリカのケンタッキー、コロラド、中国の新疆ウイグル自治区、南半球のタスマニアなどで、赤いオーロラが見られ、Xに多数写真が上がっている。(全部は見切れなかった。)

 

赤いオーロラと言えば、1938年1月25日~26日にヨーロッパ全域で見られた赤いオーロラが有名である。これに先立って、1917年5月13日にポルトガルの小さな町ファティマに聖母マリアが出現し、3つの予言を出した。

第一の予言は、第一次世界大戦の終了と次の世界大戦の再発。

第二の予言は、その前兆としてヨーロッパ中に不気味な光が見えること。

第三の予言は、兵士たちが教皇に向かって何発もの銃弾を発射し、他の司教、司祭、修道士、修道女、平信徒たちを射殺する事件。

この第二の予言が実現したのが、1938年のオーロラだと言われている。

 

今回の赤いオーロラは、欧州だけでなく、米本土、中国、豪州タスマニアまで広がっており、世界的であって前回とは異なっている。

今回の赤いオーロラを予兆として見るならば、それをきっかけに自分をのぞき込んでみる。それは、それをきっかけに世界全体を見てみれば、その意味するところがわかるということ。

ローマ教皇庁は、既に第三の予言は過ぎ去ったと考え今後は実現しないと見ている由。そういう展開はあり得るが本当にそうなのだろうか。

科学者、現実主義者は、赤いオーロラを天体現象と見るが、オカルティストは、予兆と見る。

現実は先に霊界で現象化し、その後にこの世に現象となって現れる。天体現象が先触れになることはある。自分の心理状態と世界的事件が全く無関係ということはない。NHK番組のファミリヒストリーを見れば、ほぼすべての家系が戦争で大きな影響を蒙っているものであることがわかる。世界大戦やまた疫病が起こるとすれば、自分の苦しみですらまんざらでもないとする気分と選り好みをする心性が底流にあるのだろう。

それは、一般社会人の常識から言えば善でも悪でもないが、実はその辺から赤いオーロラが湧き起こっているのではないかと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人類の進化は80億人均等に起きるわけではない

2023-11-12 07:08:42 | 覚醒のアーキテクチャー

◎先進国人と発展途上国人

 

誰にでもわかる人類の進化の徴候とは、現代人は昔に比べれば、悲しいことをより悲しがり、苦しいことをより苦しがり、うれしいことをよりうれしがるようになったということ。これを単に感受性がより敏感になったということで片付けることもできる。だが真相は、ある程度の鈍感さを必要とする人間の物質的営みに堪えることに限界がきて、愛が根底にある感性が強化されてきたということ。平たく言えば、モノと金主体で生きていくことに本能的に感情的に抵抗を示して素直に感情を表出する人が増えてきたということ。

この感情の繊細さは、冥想のニーズへの知的理解と相乗して、時代の終わりにおける冥想流行を支えていく。

 

こうした状況は、私の見るところ先進国人に起こるものであって、中国を含む発展途上国人にはめったに起こらない。発展途上国を生き抜くには、ある意味で非常な鈍感さが必要なものであって、今日(2023年11月12日)現在ガザで白兵戦が行われているが、白兵戦後に正気で帰って来るには、そうした感性の鈍麻が必要なものなのではないかと思う。

感性の鈍麻とは、たとえば漫画家吾妻ひでおが過度の飲酒でアルコール依存症となり、ほとんど人事不省となった時期に家を留守にして、何日か後に帰宅したら、家電家財金目のものをすべて知り合いが奪って行って、自宅には何も残っていなかった由。そういうことができるような人を感性の鈍麻という。

先進国人も発展途上国人も皆スマホを駆使して英語を理解できるが、それはライフスタイルの外形が共通なだけであって、中味はそのように全く異なる。要するにおおまかには先進国人は大悟覚醒の準備が整っているのに対し、発展途上国人はまだの人がほとんど。

日本政府は、難民条約上の「難民」に該当しない紛争避難民を「補完的保護対象者」(準難民)として保護する制度を来月2023年12月1日に施行する。この制度によって、ガザやウクライナや将来の朝鮮戦争や中国内戦時に発生する紛争難民を受け入れる体制が整ったので、日本は世界の紛争難民の受け皿となった。これは現在の欧米が難民・移民受け入れにより治安が大きく悪化した結果を見れば、日本の治安悪化による生活コスト増は良民の懐と心理を圧迫する。これもLGBTQ法制と並んで岸田政権の少子化対策逆行策の一例。

これは既に収入の半分を税金・社会保険料・再生エネルギー賦課金で持っていかれる五公五民の生活がさらに苦しくなるということであって、冥想環境は悪化する。

2023年9/30(土) 17:16のyahooニュース〔民間の平均給与「37万円」の過酷…一方で露わになる「勝ち組公務員」の給与額〕によれば、「民間の平均年間給与は443万円なのに対し、公務員の年収約672万円と1.5倍以上差が開いている。」。それににもかかわらず、最近官民格差是正名目でさらに公務員給与が上がった。財源は税金。退職金・年金を含めるとこの差は更に大きいのではないか。このままの趨勢で行けば公務員年収が民間の倍になる日もあるだろう。昔、ダンテス・ダイジが「日本は給料を半分にするかどうか迫られる時代があって、それは日本の分岐点になる」と言ったが、半分にするのは、公務員年収のことだったかと思い当たる(あるいは預金封鎖&円の大幅切り下げ)。それは、応仁の乱以来の政府の管理統制自体が問われる時であり、その管理統制の外に出る人が相当数出てくる時期なのだろう。

 

閑話休題、人類の進化に向けた進歩とは、文明の進歩に合わせた新たな冥想文明への可能性への歩みということ。

肉体の進化の結果、大脳は悟りに堪えられるようになった。

肉体ではないレベルに対して感受性が開けた人が増えつつある。

そして無から始まり無に終わる輪廻のことをカルパ・劫と呼ぶが、それを実際にビジョンとして見ることは大変だが、それを七つの身体論などで知的に理解することはまだたやすい。

今や人間の精神も肉体も進化し、抑圧なしで神仏を知ることができるところまでやってきた。このタイミングが組織宗教の命脈の終わりなので、釈迦はこれを末法と見て、キリスト教の予言者マラキーは最後のローマ教皇を幻視し、ファティマ第三の秘密ではカトリックの終わりがささやかれ、ダライラマは自分が最後のダライラマだとしている。かくして万人が直接神仏を知る時代となる。

水平の悟りと垂直の悟りとは、それに向けた二本の灯台のようなものだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呂祖消刧真言

2023-11-11 12:14:27 | 時代のおわりneo

◎錬金術を得てこれを峻拒した好漢の予言

(2012-10-07)

 

呂祖は呂洞賓。呂洞賓は唐代の道者であって、タオの窮極を窮めた数少ない漢の一人で、共産革命前は、中国の津々浦々にその祠である呂祖廟があったという。ダンテス・ダイジも彼の実力を高く評価している。

呂洞賓の凄いところは、世界を救うのに役に立つからと言われて、草木を変じて金に変成する錬金術の免許皆伝を受けた時に、「その効果は三千年で、三千年後にはもとの草木に戻る」との説明を受けて、即座に「三千年後の人々を嘆かせるわけにはいかない」と言って、錬金術を捨てたことである。

一銭一円の目先のわがメリットに血眼になる人々には、このエピソードは教訓とは映らないだろう。

呂祖消刧真言なるものを初めて読んだが、この世を12万年余のタームで見ているのと、時代を超えた現象そのものの消長の法則で、大災害小災害が繰り返し発生することを説明しているのであるが、その格調は極めて高い。呂祖消刧真言は、1932年四川省重慶でフーチー壇に降臨した呂洞賓のメッセージである。

曰く一元は12万年余り、これを12分割して12会とし、1会は1万年余り。1会に干支をそれぞれ充てるが、今は未で、混沌の関鍵(ターニング・ポイント)である。天運には盛衰があり、盛りの時があれば、衰える時が必ずある。人間にも必ず生も衰も死もある。同様に世運にも衰乱あれば興隆がある。衰乱窮まる時期に大災厄(刧)が発生するものだ。それは循環につきものであって避けることはできない。

こうした循環には、5百年タームのものから、千年タームのもの、万年タームのものがあるが、タームが長ければそれに対応した災厄も大規模なものになる。こんどの災厄(刧)は既に始まっているのだが、6万年タームに対応した災厄であって、世界最大の災厄である。

このこんどの災厄(刧)は巨大なだけに、短時間では終了しない。1932年はこの災厄の発端の時期であり、これが極点に達すれば小混沌となる。

一般には、天災でもって事前に警報を発し、後に人災が起こるもの。中国では天災の重いものを水害、旱害とし、人災の甚だしいのを革命の刧、赤化の刧、掃滅の刧とする。革命の刧とは、戦争や文化の革命であり、それが終わらないうちに赤化の刧が発生する。赤化の刧とは、共産革命であり、それが終わらないうちに掃滅の刧が発生する。掃滅の刧とは、外国を巻き込み、数年にして必ずや世界大戦となり、小混沌の極みにまで達すること。文字通り掃滅である。

そして、小混沌とは全世界が小混沌となり、一地域限定ではなく、土地があって人がいるところは等しく混沌となる。

これを経過して後開闢となる。

この混沌を治めるのは自分の生き方であり、それは一なる道に統一された生き方である。道は、天から来るのでもなく、地から湧くのでもなく、人によって存する。

とまあこんな感じ。

 

東日本大震災は警報であって、これから巨大人災(飢、病、戦)が起こるということだろう。

赤化の刧とはよく言ったもので、呂洞賓は共産主義政権であるうちは災厄の最中であると見ていること、そして赤い盾の人たちが主導していることをも見ているわけである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨベル書のバベルの塔

2023-11-11 07:19:06 | 人と神の「実際のところ」

◎バベルの塔を伝って天に昇るために

 

今度東京駅前に日本一の高さとなるTOKYO TORCHというビルが建つという。この名を聞いておやっと思った人は多いのではないか。TORCHと言えば、誰かが火をつけるものだからである。

東京で仕組をするが美濃尾張

旧約聖書創世記11章では、バベルの塔の最後は、人類が世界全体にばらばらに散って行くところで終わるが、偽典のヨベル書ではバベルの塔自体が破壊されるところまで書いている。

ノアの子孫は、バベルの塔を伝って天に昇るため、43年かけて煉瓦とアスファルトの塔を建てた。完成後に、神はこの塔を見に来た。

神は、『「見よ、ひとつの民。彼らがいったんことをおこしたからには彼らに不可能ということは(ひとつとして)ない。さて、おりて行って彼らの言語をかき乱し、たがいに話が通じないようにしてやるか。また各地の都市や民族の間に散らばらせてさばきの日まで意図の一致をみることのないようにしてやろう。」』(聖書外典偽典4 旧約偽典/日本聖書学研究所編/教文館P54-55から引用)

つまり一旦一共通言語になった人類は、その言語をかき乱されたので、彼らは互いに話が通じなくなり、都市と塔の建築を中止した。さらに人類は、その民族と言語に従って、すべての都市に分散していった。最後に主はその塔に向けて大風を送って、これを地面に転覆させた。人々はその名を崩壊と呼んだ。

全体のモチーフである、天に昇ろうとしたら叩き落されたというのは、ギリシア神話のパエトーンと天の車と同じ。これは、クンダリーニ・ヨーガ系の修行で言えば、自分の欲得のために超能力を得ようとか未来を予知しようとして神に叩き落されるのと同じ。

さらに人類が事を起こし始めたら必ず実現するということは、絶対にそうだとか必ずそうなるということは言えないにしても、一般法則として、世界戦争でも風俗紊乱でも一旦実現し始めたら、最後まで行ってしまうものであって、極まらないと反転はしないものだということ。そうなることの結果がわかっていても建設途中で中断することはまずないということ。

 

中国でタワーマンション群の建設が多数中断、放棄(鬼城)されているというが、よくよくのことである。中国全人口の倍(28億人分?)住めるほどマンション建設したというのも、一種のバベルの塔。

またウクライナで2年もの長い戦争が行われ、イスラエルのガザでも戦争犯罪とされるような戦争が行われる中で、大阪万博が開催されようとして、メキシコの撤退が起こった(2023年11月10日)が、これもバベルの塔のようなものといえよう。

さて、その法則に則り、神が大風を以ってバベルの塔を破壊したのは、完成後のことであった。

世の終わりで、風災、水災、火災のうちでもっとも人類にとって被害が大きいのは風災だろうと言ったのは、出口王仁三郎だが、このバベルの塔破壊も同じ風災を示している。

ヨベル書では、one worldが一旦実現し、「ひとつの民」と全人類を呼ぶが、言語も民族もやがて分断されていくことが示される。one worldとは、赤い統一とかのような者とか古い予言で言われているものだろうか。

この最終的な分散分断を踏まえて、民族意識のない宗教は結局だめだみたいなことを出口王仁三郎は言っているのだろう。

この後に裁きの日がある。善男善女は冥想を。

(Wikipediaから”バベルの塔/ブリューゲル”)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立冬のウォーキング、筋トレ、観想法+呼吸法

2023-11-10 06:57:30 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎椅子からスット立てるようになる

 

4、5年ぶりに椅子からスット立てるようになった。椅子からノークッションで立ち上がれるようになるというのは、革命的。

この改善の原因は、主に3つだと思う。

 

1.今年4月から始めた一日10分のスクワット&フロントランジ。これは、14種の10分メニューが2週間で一周するが、これを繰り返す。

【中野ジェームズ修一 【2日目】14 days challenge StayHomeWorkout】

https://youtu.be/GJX4AkicJXI?list=PLMM5fBijBV5iJ5bv75KwgiYXwmUhCaJCx&t=17

 

スクワット万能のように言われることが多いが、このメニューの半分はフロントランジ。

フロントランジの動きの基本は、古神道の天の鳥船の禊とほぼ共通している。フロントランジも片足立ちのために重要である。

 

2.今年6月から始めた室内散歩1日50分。これは、酷暑日対策でもあった。(不要の外出は避ける)

【竹脇まりな】

https://youtu.be/0SRK8vquWjI?t=141

 

室内散歩では、前進する力・踏み上げる力が不足することに最近気がついたので、それをつけるために踏み台昇降を最近始めた。

 

3.20分弱の踏み台昇降を日に2回。これは10日ほど前から始めたが、それまで10回に一回程度椅子からスット立てたる程度だったのが、ほぼ毎回スット立てるようになった。

踏み台昇降後には8分間ストレッチ。

【Run and Stretch】

https://youtu.be/UAcO8sb7KWc?t=44

 

これだけ読めば最初から踏み台昇降をやっておけば、もっと早くスット立ち上がれるようになったのではないかと思われるかもしれない。ところが、足腰の弱りは2年くらい前が底だったが、その頃にも3か月くらい毎日40分程度の踏み台昇降をやった時期があるが、ほとんど効果がなかったのだ。おそらく、最初に太ももや臀部やふくらはぎなど大きい筋肉を一定程度太くしないと、膝やくるぶしなど大きい筋肉のない部位も力がついていかないのではないかと考えている。

 

また最近になって白隠軟酥の観のような観想法+呼吸法を始めたのも、この結果の誘因になったかもしれない。

 

こうした結果、もうひとつの課題であったうすら貧血症状も以前に比べると改善してきたように思う。

 

足腰の顕著な弱りは、階段を手すりなしでは上がれなくなった時で、それは6、7年前に発生していたと記憶しているが、その頃からこうした運動を始めていればよかったのだろうが、モチベーションも今ほどはなく、何より方法がわからなかった。

お医者さんに相談してもあまり親身でなく、また薬やサプリで緩和するのも本筋ではないと考えていたが、結局老化にまつわる症状をなんとかしようというトライアルである以上は、自分で考え試してみる試行錯誤になるのはやむをえないと思う。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道元-5-悟って後、俗世を生きる

2023-11-09 03:46:38 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-16

◎青春期の水平の道-15

 

あの道元ですら、身心脱落の体験者であっても人格的には今一歩だった。これは道元だけの問題ではなく、ニルヴァーナに入った覚者がすべて人格的に円満、成熟しているかと言えば、ニルヴァーナと人格の成熟は無関係である。

よく新興宗教の教祖が人格的に練れていて絶対に怒らないでいつもにこにこしているからすごいなどという話を聞くこともあるだろうが、その人格円満は本筋とは別の話。

この背景には、悟りの深さと高さという視点があるように思う。悟った人は、天国も地獄もクリアしているが、彼らの中には、地獄的なものに平気で応対できる人物と、それが不得手な人物がいる。前者が高さも深さもある人物であって、後者が高さだけは達している人物なのだろうと思う。そういう見方からすれば道元は後者である。

覚者でも、身心脱落しても人格的に円熟とはいえない一人として道元が挙げられると思う。ニルヴァーナの体験がなくて人格的に成熟した人ならいくらでもいるが、覚醒と人格陶冶は別物なのだ。

 

彼の弟子の玄明が北条時頼から寄進地をもらって意気揚々と永平寺に帰って来た。道元はこれを聞いてひどく怒り、玄明の坐禅の坐は破壊するは、彼が居たところの土を掘って捨てるはと、すごい剣幕であった。

道元は、弟子の名利の欲望を許すことができなかったのだが、やりすぎだろう。ここでは高弟の孤雲懐奘が出てきてとりなしてやれよ、くらいのシチュエーションである。

また彼は、正法眼蔵随聞記で、栄西の死後建仁寺の僧がセックスなどのエロ話を語るのを聞いて、はなはだあるまじきことだと言ったり、人の見ていない場所や、暗い場所であっても、陰部を隠さずさらしているのは、天にも恥じない行為であると厳しく指弾している。これもやや神経質に過ぎ、エロ系の行為や会話について過敏すぎて、コンプレックスがあるのではないかと疑われる程である。

最初の話は怒りをコントロールできなかったこと、後の段はセックスに何がしかのこだわりを残していることで、どうも人格的にはいかがなものかという印象が残る。

だからといってその身心脱落の境地の高さとは全く別のこと。大宗教教団にあっては、教祖が人格的にイマイチであることは建前として認められまいが、現代のように大衆の多くが悟るべき時代なら、個人的には、人格の成熟と覚醒は別であることを承知しておきたい。

 

ダンテス・ダイジは道元が大好きだったが、彼を「人間ドラマを演ずることのできない人」と謳っている。

悟っていない俗人が、俗世を生きるのは、大変だし、全身全霊の努力も要求される。だが、悟った人でも、煩悩まみれの俗世を生きるのに耐え得る人とそうでない人がいる。

悟った人から見れば、悟った人も悟っていない人も同じだし、まして悟った人同士の差については、婉曲にしか表現しないので、わかりにくい。

悟って後、俗世を生きるとは、煩悩を生きるということである。禅では、悟って後、煩悩の巷で生きることを聖胎長養とか、悟後の修行ともいう。

20年近く悟後の修行をやった臨済と大燈国師宗峰妙超。宗峰妙超は、鴨川の川原で、9年間も字も読めない乞食の群れで日がな過ごした。ホームレス9年はきついが、インテリで極めて精妙な感受性を持つ覚者がそこで風雨を逃れるすべもなく暮らすのはまして生きづらい。

そういう第三者が見たら全く無駄で非生産的な悟後の修行のことは、本人も言わないし、後世のライターも書かない。だから余計にわかりにくい。

こうして、悟後の修行がいまいちだったかもしれない道元のことで、ダンテス・ダイジが残した詩「人間になれなかった道元」がある。

 

その一部は

『今・吾・ここにて

道元老古仏に深く深く深く

帰依したてまつります

 

あなたは 人間になろうとして

只管打座の日々を送り

「正法眼蔵」を著述した

 

あなたの言う正法眼蔵が

人間そのものに他ならぬことを

私は知っている

 

しかもあなたは

決して人間になれなかった

 

道元よ

あなたはあまりにも弱すぎて

人間ドラマを愛することはできても

人間ドラマを演ずることはできなかった』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジより引用)

 

いまようやく正法眼蔵の意図がわかったような気がする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道元-4-身心脱落の前兆

2023-11-08 03:12:31 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-15

◎青春期の水平の道-14

 

只管打坐は神秘主義は排するのだが、天童如浄は、大サービスで、身心脱落の三種の前兆を道元に教えてくれている。

宝慶記は、道元が師匠の天童如浄の言行を書きおいたもの。

それに身心脱落の前兆とおぼしきものがある。

 

如浄が道元に語るには、

「あなたは、これから先、必ず美しく妙なる香気で、世間に比べるものがない香りをかぐであろう。これは吉兆である。                              

あるいは坐禅している顔の前に、油のしたたり落ちようとするようなものがあるのも吉兆である。

もしくは、いろいろな触覚が起こることもまた吉兆である。

そのようなことが起きても、すぐに頭髪についた火を振り払う如く坐禅に励みなさい。」

 

こんな嬉しがらせてもらえるようなことを老師から言ってもらった後で、それに似たことが起きるとその神秘体験にこだわり、しばしば修行は先には進まなくなるもの。

これらの神秘体験は、身心脱落の発生に先立って必ず起きるものかどうかはわからないが、少なくとも天童如浄の経験や直観ではあることを教えてくれたものだと思う。

けれどもその扱いは、どんな素晴らしいあるいは妙な神秘体験でも、それに一切こだわりを持ってはいけないと戒めているのは流石である。

天童如浄は、魔境とそうでないものの区分を知らないはずがないので、この3例は身心脱落のプロセスにおける正統的な道標の可能性は否定できないが、一方で全く同じ事象の魔境があることもまた否定できないところはある。

 

さて油のようなものは、錬金術書の哲学者の薔薇園第8図で、天から降る露として西洋にも現れている。

直前の哲学者の薔薇園第7図では、墓に横たわった両性具有人から最後の個人が窮極である第8図に向かって上昇する。

直後の哲学者の薔薇園第9図では、既に窮極をきわめた個人が、墓に横たわった両性具有人へ向けて下降、帰還する。

大悟覚醒あるいは究極のサインとして第8図に天の露がしたたり落ちているのだ。

これをもって天童如浄が語る身心脱落の前兆としての油のようなもののしたたりは、戯言ではないことを知る。

 

また天の露は、古いタロット・カード(マルセイユ版)でも意識されている。天の露が登場するのは、大アルカナの最後の方の3枚で、月と太陽と審判である。

初めてタロットを見た時は何で雨が降っているのかと思いきや、天の露の由来を知っていれば、タロット・カードが異次元あるいは究極へのジャンプ台を暗示するツールとして使われていたことが、天の露が配置されていることでわかる。

太陽と月は両性具有のための二つのパーツ。そして審判こそ異次元への脱出シュートである。その次の世界(大アルカナ)は、アートマンの有の表象で、ニルヴァーナの愚者(大アルカナ)へとつながる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道元-3-寝る間を惜しんで坐る

2023-11-07 06:19:05 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-14

◎青春期の水平の道-13

 

天童如浄も眠る間も惜しんでひたすら只管打坐をすべきことを説いた。

 

〔正法眼蔵随聞記三〕から

「道元の師匠の如浄(中国浙江省の天童山に住す)は、夜は22時頃まで坐禅し、暁には、2時頃より起きて坐禅する。弟子たちもこの如浄長老とともに僧堂の内に坐するのである。彼は一夜もこれをゆるがせにしたことがない。その間に多くの衆僧は、眠りに陥る。如浄長老は、回って行って、眠っている僧を、あるいは拳を持って打ち、あるいは靴を脱いで打つ。なお、眠る時は、照堂に行って鐘を打ち、行者を呼び、ろうそくを灯しなどする。

そして直ぐに説いて言うには、「僧堂の内で眠って何になる。眠るくらいなら、なぜ出家して禅堂に入ったのだ。世間の帝王や役人を見ろ。誰が、たやすく生活できているのか。君は王道を治め、臣下は、忠節を尽くし、また庶民は田を開き、鍬を取っており、誰もたやすく世を過ごしている者などいない。

その世間を逃れて、禅堂に入り、居眠りをして何になる。生死事大、無常迅速(人生の問題は重大だが、死がやって来るのはあっと言う間だ)と、禅家でも教家(教理を主とした宗派)でも言われている。今夜か明朝、死んだり病気になったりするかもしれない。しばらくの間でも、仏法を修行せず、眠りこけて空しく時を過ごすことが、もっとも愚かなことである。

このような様なので、仏法は衰えて行くのである。各地で仏法の盛んな時代には、寺では皆坐禅をひたすらやっていた。昨今各地では、坐禅を勧めないので仏法は段々と衰退していく。

このような理屈でもって坐禅を勧めていたことを目の当たりにした。今の修行者も如浄の風を考えるべきである。」   

この話の、眠りも許さない只管打坐修行の厳しさとは、きっと厳しいだけのもの以外の効果も承知の上でやらせているに相違ない。

 

さらに〔正法眼蔵随聞記三〕から

「またある時、近仕の侍者たちが、如浄(道元の師匠)に言った。「僧堂の中の僧たちは、疲れて眠って、あるいは病気にかかり、消極的な気持ちも起こるかも知れない。これは坐禅の時間が長いからであろう。坐禅の時間を短くしたらどうか。」 

すると如浄は、大いに怒って言うには「それはいけない。道心のない者は、片時の間に、僧堂にいても眠るだろう。道心があり、修行の志がある者は、長ければ長いほど一層喜んで修行するはずだ。

私は若い時に、いろいろ各地の長老のところを回ったが、このようなやり方で、以前は眠る僧を、拳が欠けるかと思われるほど殴ったが、今は年取って力がなくなり、強くも打てないので、良い僧も出て来ない。各地の長老も、ゆるゆるに坐禅をやらせているために、仏法が衰微したのである。だから、ますます打つべきである。」とおっしゃった。」

 

現代では、このようなことをすれば、パワハラだとなじられるだろうが、宋代では当たり前にこれをやってきた。禅の祖師の中にはとにかく棒で殴るのもいる。それは眠らないためにだけとは限らないが。

そして、何をさておき只管打坐に打ち込んで眠らないためには、只管打坐の必要性と効果についての知的理解があれば納得して打ち込めるし、さらに深い深いモチベーションもなければならないと思う。

このことはまた、他宗派や他の冥想法に迷わないということでもある。

一般に他宗派の教学教理を並行して学び修行すれば迷うことの弊害があるものだから、その冥想法専一で修行することを求められる。

ただ、現代においては、どんな冥想でも二重の不確実性があることは承知しておくべきだろう。つまり、ある一定の冥想法では、ある決まった結果が出るのを大前提に考えてはいるが、まずその修行が成就するかどうかは保証できるものではないし、その上、結果がその修行方法で予期された結果になるものではないという二重の不確実性があるということ。

 

以上の話を総合すると、まずは只管打坐の時間が累積すればするほど大悟覚醒に近くなるという法則が隠れているように思われる。だが、今生の只管打坐の累積時間ということに限定すれば、累積すればするほど身心脱落しやすくなるのだろうが、今生で身心脱落できるかどうかはまた別のことであり、同様に年長の僧から先に身心脱落するわけでもないのだろうと思う。

またそうであるせいか、身心脱落の秘訣などというものが出回らない。改めて身心脱落した人の少なさとそのむずかしさが、垣間見える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道元-2-只管打坐は何も得るころはないけれど

2023-11-06 06:57:49 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-13

◎青春期の水平の道-12

 

道元が、弟子の質問に答えて、只管打坐は、何も得るところもなく、何も悟ることもないがそれでも坐るのだとしている。無用の用である。

 

〔正法眼蔵随聞記六から〕

道元が言った。

「修行の中で、最も重要なことは坐禅を第一とする。大宋国の人が、多く得道するのは、みんな坐禅の力である。

才能がなくて頭の悪い人でも、坐禅に一生懸命打ち込めば、その禅定の功徳により、多年学問をした聡明な人にも勝る。

そのようであるから、修行者は只管打坐して、他のことに打ち込んではならない。

仏祖の道は、ただ坐禅である。他のことに従ってはならない。

 

時に懐奘(道元の弟子)が質問した。「只管打坐と公案や禅語録を読むのとを比較すると、公案や禅語録を読めば、百千に一つくらいは、いささか納得できないこともあるが、坐禅には、ちょっと納得することも、効果もない。それでも坐禅を好むべきでしょうか。」

道元が答えて「公案や禅語録を読んで、わかったことが少しはあるようだが、それは仏祖の道から遠ざかることになってしまう。何も得るところなく、何も悟ることなく、端座(坐禅)して時を移すならば、それが仏祖の道である。

古人も公案や禅語録と坐禅の両方を勧めたが、その実は坐禅を専ら勧めている。また公案によって悟りを開いた人もいるが、それも坐禅の効果(功徳)によって悟りが開けた次第である。本当の効果は、坐禅による」

 

道元の一番弟子の懐奘が、坐禅はものの役に立たないと感じているのを、この言葉を聞く以前に、道元は察していたのだろうと思うが、とても情けなかったと思う。

懐奘ですら、坐禅は効果がないなどと思っているほどであるから、他の修行者は推して知るべしてある。

只管打坐というのは、漸進的な冥想手法ではなく、身心脱落するかしないかだけの冥想なので、身心脱落しなければ、まったく何も得るところも効果もないというのは、正直な感想だし、そのとおりだと思う。身心脱落しない只管打坐は、全く効果のない冥想に見える。

その効果のない冥想(只管打坐)が、ある日、身心脱落となるメカニズムは説明できないと来ていれば、理知的・論理的現代人は、そんな冥想をするのは、意味がないと結論を出すのは当然である。

翻って、「窮極の効果が、論理的な裏付けのない只管打坐によって成ることがある」などという説を誰が信じようか。でもそれは道元の側から見れば、恐らくは紛れもない真実であり、現実なのだ。

また皮肉にも、このような現実的な効果のない冥想をやれるかどうかが、この時代が生き残れるかどうかの鍵になっている訳でもあるが。

 

また悟れる確率について、道元だって、あの盛んな大宋国の叢林(お寺)においてすら、千人以上坊さんがいて、悟りを開いていたのは、1~2名だと見ていたので、悟り(身心脱落)が難しいのは承知の上だろう。要するに天童山(中国浙江省)でも、師匠の如浄と道元だけしか悟っていなかったということだろう。

おまけに、只管打坐では、公案や禅語録も修行の邪魔であり、役に立たないと断じているので、ますますシンプルな手法であることを露わにする。

ただただ坐禅するという簡単な手法なのに続々と開悟する人が出なかったのは、やはり身心脱落は難しいのか、道元の教育メソッドが今一つだったのか。

 

只管打坐が第一にして唯一ということだが、それでは、どうすれば悟れるかについて道元が回答している。

正法眼蔵随聞記第三巻に、どうすれば悟れるでしょうかという質問に対し、道元がまずは、その悟りを求める志が切実であることを求め、次に世間の無常を思うべきだと言う。

道元は、観想法などで理解するようなことでなく、これは眼前の道理だと断言する。

すなわち、他人が死ぬことを考えるのではなく、いつかは自分が老いて死ぬことをまず考えよう。いやこの道理を考えることも間の抜けたことだ。自分の命ですら、明日、急な事故や天災に巻き込まれないともしれないのだから、そんな悠長なことではいけない。

心構えは、無常迅速、生死事大であって、その危機はいつ来るかもしれないからこそ、今日ただ今しかないと心に据えて修行に励まねばならぬと説く。

修行に切実に取り組むのは当然だが、無常であることの切迫した意識は一時は持てても、常時そうなると、これは一種の強迫神経症みたいな感じであるものの、そうでもないと事は成らないということなのだろう。

そういう意識を持って、体を横にして眠る時間もなく、只管打坐を続けるのだろう。

 

只管打坐で悟る(身心脱落)のは、千人に一人か二人と少ないが、いつの時代も熱心に全国を回った有名禅僧の感想の中に、(只管打坐に限らず)禅で悟った人は少ないという言葉が出てくるものだ。中国唐代と日本の江戸時代の白隠の時代は例外的に悟った人を多く出した時代だったのだろう。

なお禅では、見性といって仏を見たり感じたりする究極でない中間的な体験を評価する場合がある。見性は、十牛図でいえば第三見牛であって、水平の道でいえばまだ自分が残っている有想定。道元はそうした中間段階の悟りを評価せず、究極である身心脱落しか認めないのが純粋である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道元-1-只管打坐で悟ったモデル

2023-11-05 07:18:18 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-12

◎青春期の水平の道-11

 

禅の冥想メソッドにも、公案あり、数息観あり、マントラ禅(無、隻手など)、只管打坐などいろいろある。その中で只管打坐を以って、身心脱落と呼ばれる大悟覚醒のシンプルな道を辿った典型例が道元である。

 

道元は、栄西の孫弟子であって、京都建仁寺で食べる物にも事欠く厳しい修行を経て、23歳で宋に渡った。

26歳、天童如浄に師事した。ある日、一緒に坐っていた禅僧が只管打坐中に居眠りをした。それを見た天童如浄が「参禅はすべからく身心脱落である。ひたすら眠ってなにをしようとするのか。」と叱った。これを聞いて道元は、豁然として身心脱落(大悟)した。

翌朝道元は、天童如浄の方丈(個室)に上って焼香礼拝したところ、「焼香の事はどうか?」と問われ、道元は「身心脱落しました。」と答えると、如浄は、「身心脱落。脱落身心。」と応じ、これが道元の大悟であることを証明した。

 

この身心脱落がどのような『体験とは言えない体験』であったかを直接描写したものはないが、正法眼蔵や正法眼蔵随聞記や宝慶記などで推測することはできる。

『正法眼蔵』の現成公案に

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。』とある。

これは、自己を忘れれば、不思議にもすべての世界・宇宙と合一する(万法に証せらるる)ということである。さらにすべての世界・宇宙と合一すれば、それは自己も他己も同じなのだが、それすらも脱落するのだということ。

ここは七つの身体論で言えば、すべての世界・宇宙が第六身体アートマンであって、自己を忘れれば、第六身体アートマンと合一するシーンがあり、次にそれをも脱落し第七身体ニルヴァーナとなるシーンがあることを言っているように思う。要するに身心脱落とは、この二つのステップが急速に連続して起こることなのだろうと思う。

これを証明するには、自ら身心脱落してみるしかないが、自ら身心脱落したとしてもそのプロセスとメカニズムがわかるかどうかは、これまた別のことである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陰謀論から人類絶滅へ

2023-11-04 07:29:08 | 時代にFace it

◎真相は終わった後で明かされる

 

陰謀論が陰謀論と言われる所以は、それらがいずれも人類絶滅を狙っているかのような施策だからである。よって、陰謀論は、死のカルト、絶滅論、優生学、人口削減論、悪魔主義などというレッテルをはられることがある。

昨今陰謀論と目されているものは次のようなものである。

1.その目標は、戦争、飢饉、疫病、人口減少である。

2.その姿勢は、各国政府やマスコミを主体とし、グローバルに文書や理屈によって規定された、病的な原理・理論を広汎に流布させ、それに則って、民衆を組織的に白痴化していく。

3.その手法には、人間の健康、認知、知性を攻撃するという共通点がある。

4.具体的に民衆を攻撃する手法には、ごく一例だが以下のようなものがあると考えられる。

(1) 某ワクチンとcovid某

(2) PFASなどの環境毒、水中のフッ化物

(3)電磁波(EMF / RF)(5G?など)

(4) スマホやPC依存による自己催眠

(5) ブレインフォグ( brainfog:新型コロナウイルスの後遺症の一つで、まるで頭の中にモヤがかかったようにぼんやりして物事が思い出せない状態を指した症状。)

(6)医薬品の過剰投与(老人が主食に近い量の薬を与えられているのを見るのは珍しくないだろう。)

(7) トランス脂肪酸(アメリカでは禁止)

(8)アメリカ産牛肉(BSE狂牛病の対応はいかに)

(9)中国産冷凍食品加工食品(中国の水質は悪い)

 

これらの例は肉体的、物理的なものばかりだが、こうしたもの以外に今まさに行われているロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ攻撃、中国のチベット人・ウイグル人削減のように、公然とあるいは秘密裡に行われる大規模人口削減も実際にある。

 

仏教でいえば、災害は、大三災(風水火)、小三災(飢、病、戦)に分かれるが、以上のようなものは小三災の方であって、比較で言えば影響は小といえる。

だが、そもそも大三災、小三災の分類は、この世の始めから終わりまで幻視した人物が、人類の災害をすべて見たうえで分類したものであろうから、大三災、小三災の区分は個々人にとって意味があるとも思えない。個人にとっての災難は大地震や熊ばかりではないのである。

 

神あるいは現実あるいは自分は、無数の断片で出来上がっている。それらすべての断片を調和のままにしておくのがあるべき幸福の姿だが、そうはなっていない。それが、正しい現実認識のあり方ではある。それは、悲観的にしてネガティブな人生観かもしれないが、そこから、全くそうではない逆転を見るのが冥想修行、スピリチュアル探求である。

現実の報道は、真面目に見れば見るほど悲劇的だが、出口王仁三郎は、悲劇の最後に必ず七福神を到来させ、地上天国(みろくの世)を実現させた。宗教者の教え方とはそうあるべきである。

逆に神でもないただの人間を崇拝することは危険であることを、日本人は国家神道で、いやというほど学んだのではないだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陰謀論とスピリチュアル

2023-11-03 07:33:22 | 時代にFace it

◎冥想修行が第一

 

陰謀論は、今ではDS(deep state)が中心となってやっているのだという論調が主流になっている。だが陰謀論は、日本では戦前の軍部に意識せられていたし(ユダヤ思想及運動 付録ユダヤ議定書/四王天延考等々)、出口王仁三郎も十分に認識していたし、長州五人組の英国留学(伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、井上勝)以来、存在しているものとされてきた。

陰謀論の中核は、人類の大半を滅亡せしめて高級な人類を霊界に移植し地上天国を建設しようというものであって、これは古くは旧約聖書イザヤ書の第六章に出ているもの。

これに対して、カトリック、プロテスタント、仏教、古神道など組織宗教勢力は地道に布教することによって、覚醒した人を一人でも多く出すことで地上天国の実現を図っている。

要するに両方の宗教勢力は、過去何百年間、至福千年・地上天国実現という目標は同じだが、その方法についてせめぎあっているのだ。

 

昔ダンテス・ダイジは、陰謀論について、「陰謀論は次々に明らかになっていく」と述べている。これは、冥想修行者は、まず冥想に専念すべきであって、陰謀論を暴露していったり解明したり、陰謀論に反対することにあまりエネルギーを注ぐべきではないことを示唆したものと理解している。陰謀論を暴露していったり解明したり、陰謀論に反対することは、大変面白く興味深いものだが、それなりに相当に資金とエネルギーと時間と労力を要するもので、冥想修行と両立はできまいということなのだろうと思う。

これを聞いて、以後私は陰謀論調べはそこそこにするようにした。

 

最近の陰謀論周辺で特筆すべきものは、

  1. 移民流入を日本を含め世界各国で拡大させ、各国固有の文化伝統を破壊せしめると同時に治安を悪化させる。世界全体のバベルの塔化。
  2. 無神論の世界的蔓延。昔は共産主義国中心だったが、資本主義国の宗教的ノンポリ層無神論化の拡大が急である。
  3. スマホへの依存やゲーム依存による無思考人間の拡大。これは人間の家畜化の実現。
  4. 麻薬など向精神性薬物依存者を拡大することで、社会全体を混乱させ、不健全化する。これも人間の家畜化の一環。
  5. LGBTQ公認による家庭の崩壊を原因とした孤独な人間の増加。孤独な人間は簡単に絶望から脱出しにくいところがある。もはや核家族化などと安閑としてはいられない状況。
  6. 功利・自分のメリット一辺倒の考え方の広がりと、生活苦、生活困窮を背景とした闇バイト、特殊詐欺、強盗などのスキーム化。地獄的世界観の広がり。
  7. SNSとスマホと監視カメラを利用した思想・言論・宗教統制の萌芽。中国は進んでいる。いずれは日本もそうなる。
  8. 昔はさるカルトや国会議員の一部だけが赤い国の走狗だったが、今は少なくない都道府県知事がそうなった。

 

こうした世の中全体が地獄に向かってまっしぐらの様相の中、真面目に冥想修行している人も極くまれにいる。今注目しているのは、あまりの治安悪化と政府の無茶な政策にあきれ果てて、政府の統制の外に出て暮らそうとする人々が出てきているのではないかというポイント。いずれは、そういう人たちが少数ながら注目される時期が来るのだろう。

全面核戦争、天変地異と不安がらせるビッグイベントも多いが、日常生活は生活必需品の驚異の値上がりによって脅かされ始めた。外国人優遇、少数者優遇を差別反対の美名のもとにやってばかりいる時代も長くはあるまい。

熊が飢え、猪が飢えた後は、人が飢える。国民がゴルフ場に芋を植えて飢えをしのぐ時代も遠くはないのだろう(ダンテス・ダイジ予言)。

このように、それほどに陰謀論は恐ろしいもので影響も大きい。第二次世界大戦が、実は陰謀論勢力と仏教勢力の間で戦われたという説もあるが、そんな時期すら牧歌的に思えるほどの厳しい時節とは相成った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする