アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

クンダリーニ・ヨーガのクンダリーニとニルヴァーナ

2024-06-03 03:47:12 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-10

◎ニルヴァーナ-10

◎宗派別のクンダリーニとニルヴァーナ-3

◎故意に文献での精確な定義を避けてきたインド

 

インドでは、不二一元論に代表されるように表向きの議論では、アートマンとブラフマン(ニルヴァーナ)の実体は故意に明らかにされて来なかった節がある。20世紀になってダンテス・ダイジとOSHOバグワンが、真相を明かしたのは、エポックメイキングだったと言える。その理由は、万人がそれを体験することを前提にしているのではないかと思われる。すなわち、文献を学ぶのでなく、『体験とはいえない体験をする』のが必須の時代になったからである。

 

またクンダリーニ・ヨーガの核心部分が、何千年も明文化されなかったのは、文字記録よりは記憶を優先するインドの伝統と、神が許し給わねば何事も秘密になる密教の伝統があったせいなのではないかと思う。

 

それが証拠にと言っては何だが、ヨーガ・スートラの意味のとりにくいことや、ハタ・ヨーガからクリヤ・ヨーガに関連する経典は、恐ろしく理論的ではなく、首尾一貫していないからである。

こうした広義の密教・錬金術関連文献のテクニカル・タームは一語が3種類以上の意味で都度読まなければならないのだが、それにしても・・・というところはある。

恐ろしくわかりにくい文献とすることで、真摯な求道者は必ず正師につくような仕掛けにしていったのだろう。

 

ここでは、こうした事情から、クンダリーニとニルヴァーナについて、都合のよい部分だけ拾うことになる。

 

カタ・ウパニシャッドから。

『〔一四〕彼の心に拠るあらゆる欲望が解き放たれるとき、かくて人間は不死となり、彼はみずからの肉体にプラフマンを得るのだ。

〔一五〕この世において、心の結び目がすべてほどかれるとき、かくて人間は不死となる。わが教えは以上の通りである。

 

〔一六〕心臓の血管は百と一であり、その一つが頭の頂に現われている。その血管を上にたどるとき、不死に達する。他の血管はあらゆる方向に出口がある。

 

〔一七〕拇指の大きさのプルシャ、すなわち内在するアートマンは、常に人間の心の中に入りこんでいる。ムンジャ草から茎を引き出すように、人は確固たる心で自分の肉体よりそれを引き出すべきである。人はそれが輝いており不死であることを知るべきである。それが輝いていることを知るべきである。」と。

 

〔一八〕死の神より教えられて、ナチケータスは、この知識とヨーガに関するすべての方法を得て、彼はブラフマンを獲て、情欲を離れ、不死となった。他の人もまたこのようにすれば、最高のアートマンをこそ知る。』

(世界古典文学全集/ヴェーダ・アヴェスター/カタ・ウパニシャッドP274から引用)

〔一六〕で血管がクンダリーニのエネルギー・コードとして描かれている。

それ以外はご参考。

 

さらにブラフマン=ニルヴァーナについては、

『彼は不変異といわれる。』(『バガヴァッド・ギーター』 二・二五) ・

『始めがないから、属性がないから。』(『バガヴァッド・ギーター』一三・三一)

 』

(インドの「一元論哲学」を読む シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 シリーズ・インド哲学への招待 宮元 啓一/著 春秋社 P82から引用)

 

ゲーランダー・サンヒターから

『こころを肉体から分離して、それを至上我へ合一させる。これがサマーディなりと知るべし。これはダシャー等からの解脱と名付けられている。』

(続ヨーガ根本経典/佐保田鶴治/平河出版社から引用。ダシャーの意味は不明だそうです。)

 

シヴァ・サンヒターのヨーニ・ムドラーの段。

『4.2 この梵座に鎮座するカーマ神を念想すべし。この神はバンドゥーカ花の如く美しく数千万の太陽に相当する輝きと、幾千万の月に相当する涼しさを持っている』

(前掲書から引用。梵座はブラフマ・ヨーニbrahma-yoniとあり。)

 

『4.3 この神(または座)の上方に微小な光がある。それはチット(英智)を相とする、至上の微体である。真我がこの光と合体し、一体となることを観想すべし。』

(前掲書から引用。真我はアートマンのこと。)

 

ジェイド・タブレットでは、クンダリーニについて、以下のように述べて来ている。

  1. クンダリーニは、肉体からブラフマンまで、すべての七次元に存在している不可思議なものである。
  2. 普通の人にあっては、クンダリーニのエネルギー・コードは、チャクラと接続しているが、脱身に際しては、チャクラとクンダリーニは分離する。
  3. チャクラは、コーザル体以上には存在しない。
  4. クンダリーニとは、中心太陽ブラフマンから発して自分個人に至るエネルギー・コードである。

 

ダンテス・ダイジが座談で、ムラダーラ・チャクラとクンダリーニが接している人が有するのが一定の現実感覚であって、悟った人、発狂した人は、これがばらばらにはずれて、現実感覚を失っていると発言している。

現実感を失えば、社会的に適応するためにリハビリが必要。覚者にあっては、これが聖胎長養ということになるように思う。

ダンテス/ダイジの著書ニルヴァーナのプロセスとテクニックのクンダリーニ覚醒のくだりでは、ムラダーラ・チャクラから下から順番に白銀色のコード(クンダリーニ)がはずれていくシーンが描かれている。

映画マトリックスでは、背骨のチャクラにつながった何本かのチューブがバチバチと外れていくシーンがあり、クンダリーニとチャクラの分離の秘密を知りえた人間がこの映画を監修しているのではなどと気になったものだ。

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19 太陽

2024-06-02 06:33:04 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-12

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-12

◎月と合体して、真夜中の太陽を見る

 

月の次は太陽。この太陽は中心太陽のことでなく、月とペアで機能する太陽のこと。なぜならカモワン・タロットの絵柄において男女が契りを結んでいるからである。

古事記で言えば、月とは素盞嗚(スサノオ)神の瑞霊で、太陽とは天照皇太神の厳霊。この世界を席巻する近代西欧文明は、アポロン型文明であって闇は駄目で光一辺倒の太陽偏重の文明であって、(母なき)父なる神を主と仰ぐキリスト教がバックボーンにあり、これまた太陽を偏重し、母なる月の扱いは低い。黒い聖母像などはまま子扱いである。

これに対し、古神道は古事記において天の安の川原で、太陽たる天照大神と月たる素盞嗚尊が誓約し合い、その太陽と月の合体により完全無欠にして両性具有の伊都能売(いづのめ)神が生まれた。この点で古神道は、バランスの良さを見せている。

 

次に真夜中の太陽を見る話。

ろばになったルキウスは、真夜中の太陽を見て人間に戻ることができた(黄金のろば/アプレイウス)という逸話の他に中国道教の太乙金華宗旨にもそのシーンがある。

『三更 (午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。』は、修行者にとっての第二のステップ。OSHOバグワンの説明は、第一ステップで中庸に居ることに集中していると、肉体と心を同時に見ることができるようになり、それを見ている自分に気づく。見ている自分とは魂のこと。見ている自分で見守ることに専念していると、突然真夜中に太陽が上がり光輝くように、内も外も光で満たされ、全存在が燃え上がる。

 

昨今ハタ・ヨーガをやる人の中には太陽礼拝をやる人が多いが、月輪礼拝もやらないと片手落ちかもね。

 

中国にも世界樹、生命の木、哲学の木がある。建木である。これにも太陽が登場する。淮南子・地形訓の崑崙山の段、『建木は都広に在り、衆帝の自(よ)って上下する所。日中無景(影)にして呼(さけ)べども響きなし。蓋し天地の中なり。』

(世界樹は、大地の中央にあって、神々はここを昇降する。太陽の南中する時刻のように影を造ることなく、音もない。これぞ天地の中心である。)

 

これは、キリスト教にも霊界物語でも見かける天の梯子のイメージ。アセンションで通って行くところ。しかし、更に意味深長なのは、日中無影にして、呼(さけ)べども響きなしのところ。目に見える風景が動かず、かつ音がない世界。

これは、時間が止まった世界のことである。時間を止めるというのは、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスが好んで使った表現。時間を止めるとは想念が停止すること。そこではじめて世界の中央となる。今流行の『今ここ』とは、本来このレベルを指すものと思われる。

 

世界樹は根と枝に別れる。人間に当てれば根が頭であり、枝の方が足となり、日常意識の立ち姿とは転倒している。これはタロットの吊るされた男のスタイルでもある。また、この死の世界に頭を突っ込むイメージは、死の世界が生の世界より広いことも表している。

 

また山海経の海外東経にも建木の別名の扶桑についての記述がある。これは、扶桑には10個の太陽が沐浴するところであり、9個の太陽は下の枝にあり、一個の太陽が上の枝にいる。10個の太陽は10チャクラ。上の枝の太陽はサハスラーラ・チャクラにあたり、別格であることを示す。

 

パタンジャリのヨーガ・スートラ3.32『頭の王冠の下の光についてサンヤマを行うことによって、すべての完璧な実在にコンタクトすることができるようになる』

3.33『そうでなければ、照明(Pratibha)によってもすべてのことを知ることができる』

『すべての完璧な実在』とは、第六身体アートマン。『サハスラーラで、サンヤマすれば、アートマン』とは、暗号みたいな表現だ。

ここでもOSHOバグワンは、太陽と月との関連を指摘している。彼は、pratibhaについて、まず、

『太陽は知性で、月は直感。あなたが両方を超越するとき、pratibhaが来る』とし、

『プラティバとは、エネルギーが知性と直感の二重性を超えた時を意味し、それは両方を超えている。直感は知性を超えているが、プラティバはその両方を超えている。

今やそこに論理的つながりはなく、すべてが永遠に明らかになり、全知、全能、遍在となる。過去、現在、未来のすべてが同時に明らかとなる。』

(出典”Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 8”から)

 

よく西洋の錬金術やチベット密教で太陽と月の並列シンボルを見たり、太陽男と月女の合体図を見たりするが、要するにプラティバのことなのだろう。

曼荼羅は両界そろってプラティバ(出口王仁三郎は、金剛界は男、胎蔵界は女と見る)。

 

二元性以外の太陽シンボルについては、いさかか霊がかり気味の話だが、以下のようなものもある。これはタロットとは無関係ではあるが・・・。

 

古い中国道教でも太陽南中時を多用するということがある。この時刻を「日中」と呼ぶ。

 

太陽南中時に服餌(薬草のたぐいを食す)したり、この時刻に神霊から経典を受け取ったり、高級神霊が降臨したり、薬物の採取も、呪符や、道具の製作も・・・・・。吉日の選定には丙午、庚午などの午日を選び、時刻には、太陽南中の直前か、太陽南中時を選ぶ。

 

この時刻には地上のものは、最も生き生きと活発に活動し、エネルギーが横溢しているだろうから。ことに大気中のプラーナは最も活性化している時間帯だろう。・・・・

 

さらに陶弘景の弟子の周子良のところに高級神霊である趙威伯が出現したのは、515年の夏至の日の、もう少しで太陽南中する刻限のことであった。このことがあってから、周子良は一人で部屋にひきこもり、毎日「日中(正午)」に一升の蜜餐をとるだけであったという。

 

また239年の正月一日の日中に、葛玄は、太上老君(老子)から千真科戒を伝授され、また244年8月15日の日中、仙人BGMが流れ、大勢の仙人たちのお迎えが壇に降下して待つ中、太上玉京太極左官仙公として、仙界に召された。

 

143年正月7日の日中に、五斗米道の開祖張道陵は、太上老君(老子)から二十四治(五斗米道の組織)を授けられた。

(参考:中国古道教史研究/京都大学人文科学研究所/吉川忠夫編)

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キリスト教の梯子

2024-06-02 06:24:22 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-14

◎世界樹-12

◎人一人が通れるだけの巾の狭い青銅製のはしご

 

キリスト教の世界では、梯子を昇って天上に至るビジョンがしばしば語られる。梯子は世界樹のデフォルメの一つである。まず天上へのビジョンを見てみよう。

 

1.ローマ時代の22歳の女性殉教者ペルペトゥアは、闘技場で牛の角で突かれた後に剣で命を落としたのだが、彼女の最初の幻視は、人一人が通れるだけの巾の狭い青銅製のはしごが天まで達しており、梯子の下には巨大な龍がいたというもの。

 

2.「アイオーン/CGユング/人文書院P327」の挿絵によれば、ローマのカタコンベの中のバルビナ墓所の壁画には、梯子を登る人(僧?)の絵があり、梯子の下には蛇がいる。

 

3.創世記第28章12節で、ヤコブが天の梯子を見た。「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。 その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」

地上から梯子が伸びるのではなく、神の側から地に向かって梯子が伸びているというのが、いかにも自我未発達な時代の古代秘教的精神の特徴をうかがわせる。ヤコブは上から見ているのだ。

 

4.エドワード・メートランドの神の幻視『私は最初、一つの体系の周辺部から中心点に向かって長い梯子を昇っているような感じをもったが、その体系というのは、私自身の、太陽系の、そして同時に宇宙の体系でもあった。

この三つの体系は異なっていながらしかも同一であった。・・・・やがて私は最後の努力をふりしぼった。

・・・・・私は私の意識が放射する光線を、望みどおりの焦点に合わせることができた。その瞬間、突然点火によってすべての光が一つに融合したかのように、すばらしい、形容しがたい輝きを帯びた白い光が私の前に立った。』

(黄金の華の秘密/ユングとウィルヘルム/人文書院P61-62から引用)

 

メートランドは、この後で白い光の正体を見ようと試みた。

 

『その力は非常に強くて、私は突き倒されそうになった。・・・・・この光をこれ以上探求することは、無用であると感じはしたものの、私はもう一度たしかめてみることにした。

それはほとんど私を盲目にせんばかりだった輝きを貫き通して、その中に含まれているものを見たかったからである。

・・・大変な苦労の末、私はやっと成功した。私がそこにあるにちがいないと感じていたものが現れてきた。・・・・・それは御子[キリスト]の二重性であった。

・・・・隠れていたものが明らかになり、定義できないものが定義され、個別化できないものが、個別化されたのである。

主なる神はその二重性によって、神は実体であるとともに力[作用]であり、愛であるとともに意志であり、女性的であるとともに男性的であり、母とともに父であることを示していたのである。』

(上掲書P61から引用)

 

メートランドは、梯子の先にイエス・キリストを見た。キリスト教でいう空中携挙、つまり最近話題のアセンションの梯子の先には御子イエスがお待ちになっているわけである。二重性には言及できているが、私は神であったことに気がついたとまでは言えていないので、見ている自分を残しているのだろう。

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古神道のクンダリーニとニルヴァーナ

2024-06-02 03:54:07 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-9

◎ニルヴァーナ-9

◎宗派別のクンダリーニとニルヴァーナ-2

◎世界の構造は四段構え

 

ストレートに言えば、クンダリーニは霊線、玉の緒であって、ニルヴァーナは、天御中主神。神直日とは、アートマン。大直日は、コーザル体と思われる。

10チャクラは十種神宝と見る。(10チャクラ説を採用。ニルヴァーナのプロセスとテクニックP13)

 

※十種神宝

嬴都鏡(おきつかがみ)・・・《サハスラーラ・チャクラ》

辺都鏡(へつかがみ) ・・・《アジナー・チャクラ》

八握の剣(やつかのつるぎ)・・・《ヴィシュダ・チャクラ》

生玉(いくたま)・・・《アナハタ・チャクラ 》

死返玉(よみかへしのたま)・・・《マニピュラ・チャクラ》

足玉(たるたま) ・・・《スワジスターナ・チャクラ》

道返の玉(みちかへしのたま)・・・《 ムラダーラ・チャクラ》

蛇の比礼(おろちのひれ)・・・《太股のチャクラ》

蜂の比礼(はちのひれ)・・・《ふくら脛のチャクラ》

品物の比礼(くさぐさのもののひれ)・・・《足裏のチャクラ》

 

令集解で、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天より降ります時、天津神、瑞の宝十種、息津鏡一、辺津鏡一、八握剣一、生玉一、足玉一、死反玉一、道反玉一、蛇比礼一、蜂比礼一、品々物の比礼一を授けて教え導き、若し痛い所が有る者は此の十種の神宝を合せて一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と云って布留部由良由良と布留部。如此なしては死れる人も生き返りなむ矣とある。

すなわち人間は誕生に際して10チャクラが霊体に配されて誕生するわけだが、それを天下りと見て、饒速日命が降臨された際の十種神宝と示したというのはありそうなことである。

 

さて古神道の世界の構造は四段構えで、幽の幽、幽の顕、顕の幽、顕の顕。      この特徴は、どこまでが個人でどこまでが全体なのかわかりにくいということと、個と全体の逆転のインプレッションがとりにくいこと。

 

幽の幽は、天御中主神であり、ニルヴァーナであり、無のサイド。天御中主神と高皇産霊、神皇産霊の二霊を合一し、三神即一神を幽の幽と言う場合もある。

 

かたや幽の顕、顕の幽、顕の顕は有のサイドにして、第六身体と思われる。

幽の顕とは、イザナギ、イザナミの二神や天照大御神、素盞鳴神など、天上の霊界を主宰する神。真の神が変現し給いし神を幽の顕。

これは、個人が登場しないので、第六身体の永遠不壊のイデア界のイメージなのだろうと思う。

 

顕の幽とは、国祖国常立尊、豊雲野尊など、一度現世にその肉体を表現された神であって、地上の幽界を主宰する神。一旦人の肉体を保って霊界に入り給いし神。

 

顕の顕とは、人間のこと。

顕界に肉体を保ち、神の大道を伝え、また現界諸種の事業を司宰する人間。

(参照:霊界物語 第63巻第4章 山上訓)

さらに、顕の顕について。

『顕の顕       上は天皇より下巡査に至る迄、是は百八十一の階級の神様である。それで日本人は之を御上と言ふ。役人さんを御上と言ふ、是は所謂神の分類です。』

(大本史料集成 3 地裁公判速記録(出口王仁三郎)から引用)

 

以上を俯瞰してみると、何の力もない人間が全知全能の神になるなどという事は展望しにくいが、万人が玉の緒なる霊線が主神天御中主神に直結していることで、ぼんやりとわかる。

 

また古事記に最初に登場してくる次の七柱の神は、独神と言われる。独神は独存(カイヴァリヤ)のことだろう。

 第一に 天之御中主神 

 第二に 高皇産霊神     

 第三に 神皇産霊神     

 第四に 宇麻志阿斯訶備比古遅神    

 第五に 天之常立神     

 第六に 国之常立神     

 第七に 豊雲野神 

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我と神の真の合体

2024-06-01 07:02:59 | 真剣から無駄へ-世界の戯れneo

◎OSHOバグワンの逍遥訣解説-8

(2022-07-16)

 

逍遥訣の呂洞賓の解説の続き。

『この二つの実体が出会うと、それらは固く結ばれて離れなくなり、尽きることのない生命が発現する。それはおのずと根元の気 (エネルギー) の宮のなかを去来し、浮き沈みをくり返す。人は光輝く無限なるものを目のあたりにする。全身が軽やかになり、今にも飛びそうになる。「雲が千の山々にかかる」と呼ばれる状態である。

 

それはあちこちを軽やかに去来し、覚知しえぬほど静かに浮沈する。脈拍は穏やかになり、呼吸は止まる。これが真の創造的な交合の瞬間であり、「月が無数の水面を吸引する」と呼ばれる状態である。

 

この暗黒の只なかに、突然、天上のこころが動きはじめる。これが一陽来復であり、新しい生命が 兆すときである。』

(黄金の華の秘密/和尚/メルクマールP413から引用)

 

この二つの実体とは、上昇していく純陽(自分)ともともと上にあった乾陽。OSHOバグワンのコメントでは、あなたがひとつになっていると神があなたに引き寄せられていくとする。これぞ第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性。二つが接近遭遇する。やがてそれらが合体すると尽きることのない生命、光輝く無限なるものを見る。これを呂洞賓は、「雲が千山に満ちる」と表現する。

 

続く段階で、いよいよ呼吸が停止し心拍が停止する。するとこれが真の合体であり、「月が無数の水面を吸引する」(月満水を涵(ひた)すなり)と描写される。

 

呼吸停止、脈拍停止していると、ここに突然天心が動き出す。これが一陽来復であり、復活であり、再誕・再生である。この部分は、呂洞賓の方が“ニルヴァーナのプロセスとテクニック”より詳説している。このポイントの後、人は天からのエネルギーのシャワーを受け復活する。

 

それ以後の彼は、内に常に神が居て、彼はそこになく、中空の竹に過ぎず、神だけがいる。

 

太乙金華宗旨原文では、この後に6節ほどの更なる解説がついているが、OSHOバグワンは訳出していない。注目点としては上昇のタイミングであって、天心が動いていないのに自分が上昇するのは、若くてダメ。天心が動いた後に自分が上昇するのでは、タイミングを失している。天心が動いたら真意をもって乾宮(サハスラーラ)に上昇するのがよい、と。

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18 月

2024-06-01 04:43:47 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-11

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-11

◎水底の世界にも月の光の救済は行われる

カモワン・タロットの18 月の図柄では、天の露が降っているので、既に不退転の善の側に居て、大吉祥。

 

月と言えば、自らの号を瑞月と称していた出口王仁三郎の説明が詳しい。出口王仁三郎は、教団本部内に破壊されることのないように石で” 月宮殿” を建立したが、二度にわたって官憲により徹底的に破壊された。月宮殿とは、弥勒さまを祭る宮だが、みろくの世(地上天国)にならなければ、月宮殿もさびれる一方で、今はむじなやイタチが住み家にするほど寂しく荒れ放題。

『人間の運命にも栄枯盛衰がある。潮にも満干がある。此宮さまは今は干潮時ぢや。それだからかう見窄らしく荒廃して居るのだ。之でも五六七の世に成れば、此お宮は金光燦然として闇を照し、高天原の霊国にある月宮殿の様になるのだが、何程結構な弥勒さまのお宮でも時を得ざればこんなものだ。信真の徳の失せたる世の中の姿が遺憾なく此お宮に写されてあるのだ。嗚呼如何にせんやだ』(霊界物語第21巻第3章月休殿から引用)

 

そして出口王仁三郎の太陽と月の位置づけは、

厳霊とは至厳至貴至尊にして過去、現在、未来に一貫し、無限絶対無始無終に坐ます神であって、霊界では“太陽”。

瑞霊とは現界、幽界、神界の三方面に出没して一切万有に永遠の生命を与へ歓喜悦楽を下し給う神であって、霊界では“月”。

『高天原の総統神即ち大主宰神は大国常立尊である。又の御名は天之御中主大神と称へ奉り、其霊徳の完全に発揮し給ふ御状態を称して天照皇大神と称へ奉るのである。そして此大神様は厳霊と申し奉る。厳と云ふ意義は至厳至貴至尊にして過去、現在、未来に一貫し、無限絶対無始無終に坐ます神の意義である。さうして愛と信との源泉と現れます至聖至高の御神格である。さうして或時には瑞霊と現はれ現界、幽界、神界の三方面に出没して一切万有に永遠の生命を与へ歓喜悦楽を下し給ふ神様である。瑞と云ふ意義は水々しと云ふ事であつて至善至美至愛至真に坐まし且円満具足の大光明と云ふ事になる。

 

又霊力体の三大元に関聯して守護し給ふ故に三の御魂と称へ奉り、或は現界、幽界(地獄界)、神界の三界を守り給ふが故に三の御魂とも称へ奉るのである。要するに神は宇宙に只一柱坐ますのみなれども、其御神格の情動によつて万神と化現し給ふものである。さうして厳霊は経の御霊と申し上げ神格の本体とならせ給ひ、瑞霊は実地の活動力に在しまして御神格の目的即ち用を為し給ふべく現はれ給うたのである。故に言霊学上之を豊国主尊と申し奉り又神素盞嗚尊とも称へ奉るのである。さうして厳霊は高天原の太陽と現はれ給ひ、瑞霊は高天原の月と現はれ給ふ。故にミロクの大神を月の大神と申上ぐるのである。ミロクと云ふ意味は至仁至愛の意である。』(霊界物語 第48巻12章 西王母から引用)

※高天原は天国の下にある霊国の一部。

 

西洋錬金術の逃げるアタランタでは、太陽と月の関係は、エンブレムXXXで『太陽は月を必要とする。雄鶏が雌鶏を必要とするように』と謳われ、続く寸鉄詩では、『太陽よ、わたしの援けなしにあなたは何もなし得ない。

雌鶏なしには雄鶏も無用なように。

わたし、月もあなたの援けを乞う。

雌鶏が大きな鳴声で雄鶏を呼ぶように。

自然本性が結びつけようとするものを、どうして 引き離すことができるなどと考え得るだろう。』

(逃げるアタランタ/M・マイアー/八坂書房P271から引用)

これでは、漠然としすぎている。

 

道教の呂洞賓は、いよいよ呼吸が停止し心拍が停止する。するとこれが真の合体であり、「月が無数の水面を吸引する」(月満水を涵(ひた)すなり)と描写する。これも水面上の月の大秘儀。

 

カモワン・タロットの18 月の図柄では、二本の塔が立ち、奥に更に至聖所があることが想定される。霊界物語でも月宮殿のある月照山とは別に至聖所が存在している。

 

また二匹の犬が月に向かって吠えている。これは、出口王仁三郎が、月=ミロクに関して以下のように述べているが、犬(のような人)がいくら月に向かって吠えてもミロクをわかるまいと言っているように思う。

『ミロクと云ふ意味は至仁至愛の意である。さうして其仁愛と信真によつて、宇宙の改造に直接当らせ給ふ故に、弥勒と漢字に書いて弥々革(あらた)むる力とあるのを見ても、此神の御神業の如何なるかを知る事を得らるるのである。善悪不二、正邪一如と云ふ如きも、自然界の法則を基礎としては到底其真相は分るものでない。善悪不二、正邪一如の言葉は自然界の人間が云ふべき資格はない、只神の大慈大悲の御目より見給ひて仰せられる言葉であつて、神は善悪正邪の区別に依つて其大愛に厚き薄きの区別なき意味を善悪不二、正邪一如と仰せらるるのである。』(霊界物語第48巻12章 西王母から引用)

 

図柄の最後の謎は、水中の甲殻類。これはかねて出口王仁三郎が竜宮について繰り返し述べている理由と同じだと思う。つまり竜宮に住む竜神は動物であって、元々は人間より下であったが、時代が進んで人間の方がどんどん落ちていき、人間によっては竜神より下になるような人間が出てきたこと指す。水底の世界にも月の光の救済は行われるのだ。

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中国の天への階段

2024-06-01 04:31:37 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-13

◎世界樹-11

◎崑崙山

 

エスカレーターといえば、アセンションを幻視した人たちの天の梯子が有名だが、ここは、まず中国の天への階段。

中国の天への階段=天梯は、2種あり、ひとつは世界樹である建木、もうひとつは崑崙山である。建木は既に紹介したので、崑崙山。

 

崑崙山に宮居があり、崑崙山は黄帝の地上の帝都である。崑崙山の山頂は天に達し、山麓は弱水の深淵があり、外縁は火山に囲まれ常に噴火が発生している。

このように崑崙山には登るどころか、近づくのも難しい。

古籍には、天梯を自由に昇降できるのは、神人、仙人、巫女の三種に限るとされる。

また天梯とされる山には、他に華山、青水の東の肇山があり、仙人柏高はこの山から昇天し、また西方の荒野に登葆山があり、巫師たちがそこから上下往来したという。

 

さて、黄帝が天帝になる前に、兄弟である炎帝(人身牛首)と阪泉の野で戦い、炎帝を破り南方に追いやった。炎帝の末裔の蚩尤(しゆう)は、炎帝の仇討ちの戦いを黄帝に挑んだ。これが涿鹿(たくろく)の戦いである。黄帝は、蚩尤をとりこにして殺し、天帝となった。

この一件を教訓として、黄帝の曾孫の顓頊(せんぎょく)は、上帝になると、天地を結ぶ天梯を塞いで行き来が出来ないようにした。

 

こうしてみると、天梯を登ることはアセンションであって、それは古代からあったもので、決してブランニューな新顔のイベントではない。

顓頊が天梯を塞いだのは、超能力バトルの時代の終焉であり、アトランティスの最期のことか。

 

炎帝の人身牛首はミノタウロスだが、馬身人首のケンタウロスの逆バージョン。そういうバイオな操作を盛んにやっていた時代があるのだろう。旧事本紀みたいに。

 

そして昭和十年の第二次大本事件前夜、出口王仁三郎は、ご神体を道者笹目秀和に託し、中国崑崙山への返還を依頼した。笹目秀和は鶴仙に乗り、見事それを成し遂げた。崑崙山の地政学的重要性は、古代中国人に理解されていただけでなく、現代日本人にもきちんと理解されていたわけだ。

 

世界樹というシンボルは、グローバルというよりもトランス・コスモスであるが、その表現様式を世界に採るか宇宙に採るかというだけの差であるように思う。

また崑崙山を天への階段というが、天とはすなわちニルヴァーナ・神・仏・禅でいうところの無・道教の道を指すと見るのが自然であろう。

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キリスト教のクンダリーニとニルヴァーナ

2024-06-01 04:05:25 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-12-8

◎ニルヴァーナ-8

◎宗派別のクンダリーニとニルヴァーナ-1

◎七つの中枢を通って人の子は神に向かって上昇

 

平たく言えば、聖霊がクンダリーニであって、父なる神がニルヴァーナ。

まず黙示録の著者のヨハネは、十二使徒の漁師のヨハネで、イエスが十字架に架けられた際に、使徒の中でただひとり十字架の傍らにいた人物。

 

ババジの弟子であるユクテスワは、聖書のヨハネの黙示録の第1~2章で次のように説く。

 

”七つの金の燭台または七つの教会”は七チャクラ。

”右手に七つの星を持ち”については、七つの星は、聖霊の御使い、”右手”は神に至る正しい道筋ということなので、クンダリーニのエネルギー・コード上のチャクラ。

”七つの金の燭台の真ん中を歩く者”とは、クンダリーニのエネルギー・コード。

『これら七つの中枢を通って人の子(自我意識)は神に向かって上昇してゆくのである。』

(聖なる科学―真理の科学的解説/ユクテスワP84から引用 )

”人の子(自我意識)”がクンダリーニのエネルギー・コードである。

 

ユクテスワは、神との合一、カイヴァリヤすなわちニルヴァーナは、ヨハネの黙示録3-22『勝利を得る者には、わたしとともにわたしの座につかせよう-ちょうど、わたしが勝利を得て、わたしの父とともにそのみ座についたのと同様に』に示されているとする。

 

旧約聖書創世記冒頭は、

『 はじめに、神は天と地を造られた。 地はむなしく何もなかった。やみは深淵の上にあり、神の霊は水の上をおおい動いていた。神が、「光あれ」と言われると、光があった。』

という具合であって、『有』が天地創造に始まることから、ニルヴァーナに当たるものは『神』である。

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