・元和6年[811年]郗士美が嗣ぎ成徳王承宗征討にあたるがはかばかしい戦果はなかった。
・元和15年[820年]淮西の功労者武寧節度使李愬が転任してきたが、すぐ田弘正のあとの
魏博へうつった。そして淄青李師道を裏切った劉悟がその功績により入った。
・悟は最初は恭順であったが、長慶元年[821年]河北三鎭が再び叛し、専横な監軍劉承偕を
囚えた頃より自立を図るようになったが宝暦元年[825年]卒した。
・悟の子従諫は事なかれ主義の宰相李逢吉や、宦官王守澄に贈賄することで継承を認めても
らった。彼は学問好きな文治主義者であった。
・従諫は成徳王廷湊や横海李同捷の乱に対しては唐朝側に立っていた。
・従諫は太和6年[832年]入朝し宦官の専横や宰相間の党争に呆れ果て自立を強めることになった。
・太和9年[835年]甘露の変後、宰相達を殺した宦官の勢力が極大になるのをみた従諫は宰相王涯
等の罪名を正式に問うた。過剰な殺戮をした宦官仇士良達は懼れ、李石や鄭覃などの宰相達に遠慮するようになった。
・従諫は甘露の変の関係者をかばって一族を潞州に住まわせた。宦官達はそれを憎んだがなすすべはなかった。
・元和15年[820年]淮西の功労者武寧節度使李愬が転任してきたが、すぐ田弘正のあとの
魏博へうつった。そして淄青李師道を裏切った劉悟がその功績により入った。
・悟は最初は恭順であったが、長慶元年[821年]河北三鎭が再び叛し、専横な監軍劉承偕を
囚えた頃より自立を図るようになったが宝暦元年[825年]卒した。
・悟の子従諫は事なかれ主義の宰相李逢吉や、宦官王守澄に贈賄することで継承を認めても
らった。彼は学問好きな文治主義者であった。
・従諫は成徳王廷湊や横海李同捷の乱に対しては唐朝側に立っていた。
・従諫は太和6年[832年]入朝し宦官の専横や宰相間の党争に呆れ果て自立を強めることになった。
・太和9年[835年]甘露の変後、宰相達を殺した宦官の勢力が極大になるのをみた従諫は宰相王涯
等の罪名を正式に問うた。過剰な殺戮をした宦官仇士良達は懼れ、李石や鄭覃などの宰相達に遠慮するようになった。
・従諫は甘露の変の関係者をかばって一族を潞州に住まわせた。宦官達はそれを憎んだがなすすべはなかった。