唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

澤潞節度使 相衛節度使 昭義軍節度使 その2

2012-03-07 10:31:28 | Weblog
・大暦8年[773年]薛嵩が卒すると、子平は世襲を嫌い京師に逃れた。叔父崿が継承した。
しかしその統治は不安定で有り、巨大な軍備による財政難に苦しむ隣鎭魏博田承嗣は旧知の
將達に働きかけ相衛の併呑を図った。
・大暦10年[775年]兵馬使裴志清は崿を逐い承嗣軍を誘い込んだ。唐朝はこれを認めず、
華州刺史李承昭を送り込んだが領州は次々と奪われた。
・承嗣征討により邢磁二州だけが唐朝側に残り、相衛洺貝四州は魏博領となった。大暦11年
[776年]承昭は疾を称して辞し、澤潞留後の抱眞が磁邢二州留後を兼任することになった。
・大暦12年[777年]抱玉が卒し、抱眞が懷澤潞邢磁を継承し、14年[779年]節度使となった。
・昭義軍は魏博や成徳と対面する大行山脈の東邢洺磁州と、西の河東と東都を結ぶ懷澤路州
を支配し、抱眞が弓兵を中心とする兵備を強化したこともあり唐朝が河北三鎭を抑える
重要な藩鎭となった。