・淮西李忠臣は勇将であるが,好色であり部下の妻女を犯すという悪癖があり、また軍政も妹婿の
張惠光に委任せた。そのため將士には不満が高まり。大暦14年[779年]族子の希烈が決起して忠臣
を逐った。唐朝は忠臣の功績を評価して宰相として遇し、希烈を淮西節度使とした。
・漕運の要地であり富裕な汴州は忠臣の功績に対する恩賞であったので、淮西節度使は蔡州に戻されて、
永平李勉が汴州に移治してきた。当然淮西藩鎭には強い不満が生じた。
・建中4年[783年]淮西李希烈が叛すると、その攻撃対象は河南の汴滑陳許州や東都であり、
文官の李勉では対処できず、汴・滑・鄭州などは希烈の支配下となった。
・唐朝は淄青李納に対抗するため、建中二年[781年]正月宋州に宋亳潁節度使を置き劉洽[賜名されて
玄佐]を任じ、二月に「宣武軍」と賜號した。玄佐は納と対等に戦い、希烈の圧迫に耐えていた。
・興元元年[784年]11月玄佐は陳州で希烈を大破し、希烈に降っていた滑州李澄[旧永平將]が復帰する
とともに攻勢に出て、汴州を回復した。
・貞元元年[785年]6月宣武軍節度使劉玄佐は汴州を与えられ、移治して汴宋亳潁四州を領する有力な藩鎭となった。
張惠光に委任せた。そのため將士には不満が高まり。大暦14年[779年]族子の希烈が決起して忠臣
を逐った。唐朝は忠臣の功績を評価して宰相として遇し、希烈を淮西節度使とした。
・漕運の要地であり富裕な汴州は忠臣の功績に対する恩賞であったので、淮西節度使は蔡州に戻されて、
永平李勉が汴州に移治してきた。当然淮西藩鎭には強い不満が生じた。
・建中4年[783年]淮西李希烈が叛すると、その攻撃対象は河南の汴滑陳許州や東都であり、
文官の李勉では対処できず、汴・滑・鄭州などは希烈の支配下となった。
・唐朝は淄青李納に対抗するため、建中二年[781年]正月宋州に宋亳潁節度使を置き劉洽[賜名されて
玄佐]を任じ、二月に「宣武軍」と賜號した。玄佐は納と対等に戦い、希烈の圧迫に耐えていた。
・興元元年[784年]11月玄佐は陳州で希烈を大破し、希烈に降っていた滑州李澄[旧永平將]が復帰する
とともに攻勢に出て、汴州を回復した。
・貞元元年[785年]6月宣武軍節度使劉玄佐は汴州を与えられ、移治して汴宋亳潁四州を領する有力な藩鎭となった。