唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

陝虢節度使 陝虢都団練観察使 その1

2012-03-16 22:11:41 | Weblog
・陝西節度使・防禦観察使・都防禦観察陸運使・都防禦使など多様な形態を持つ。京師と東都の中間に有り、
江南からの漕運が黄河を遡及し、陸運での運搬に転換する位置にある。また関東よりの防禦地点にもある重要
な方鎭であるが、地味は痩せて豊かな税収は望めない地域である。
・乾元元年[758年]陝虢華節度使が置かれ、二年三月河西節度使の來瑱が任じられた。相州での唐軍の大敗を受け、
京師防衛の為に配置された。
・上元元年[760年]瑱は山東へ移り、節度使は防禦観察使となって右羽林大將軍郭英乂が後任となり、
神策節度使衛伯玉と共に史思明軍の攻撃を防いだ。
・寶應元年[762年]東都の回復とともに、英乂は權知東京留守となり、廣徳元年には右僕射として転任した。
宦官魚朝恩はここに麾下の神策軍を置き、配下の皇甫温を節度使とした。
・大暦五年[440年]温は代宗皇帝が朝恩を嫌うのを察知し、宰相元載と結び朝恩を失脚させ保身を図ることに成功した。
・大暦九年[774年]温は浙東へ移動し、李國が任じられたが10年[775年]軍乱により逐われた。
陝虢の牙軍は小鎭ではあるがその位置の重要性と神策軍の伝統により強力であった。
・大暦14年[779年]防禦観察使は廃止されたが、建中二年[781年]には防禦使として復活し文官が赴任したが、
4年[783年]宗が奉天に逃れると武将張勸が節度使となった。

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