・寶應元年[762年]父史思明を殺した朝義の勢力は縮退し、その將張獻誠は汴州をもって降り、
河南地域は回復されていった。
・河南節度使が汴州に復置され汴宋曹徐穎兗鄆濮八州を管轄するようになり、
降將の獻誠が節度使となった。
・しかし重要地域である河南道を降將に任せることは危険であり、獻誠もまた強硬な賊黨では
なかったため、廣二年[764年]山西節度使に移し、平盧軍あがりの武将田神功を節度使とした。
・隣鎭の永平令狐彰[降將だが従順]・淄青侯希逸[同じ平盧軍出身]などとともに連携し神功
が大暦9年[774年]に卒するまで、河南は安定していった。9年より11年までは弟神玉が後任とな
ったが、魏博田承嗣の反乱の影響が徐々に及んできていた。
・大暦11年[776年]神玉が卒すると、將李靈耀が承嗣の支援を受けて自立しようとした。
唐朝は淮西李忠臣・淄青李正己・永平李勉らに征討させた。
・反乱は内部分裂と、李忠臣の勇戦により鎮定されたが、徐鄆曹兗濮州は平盧の領州となり、
宋泗二州は永平に、汴州は忠臣に与えられ、河南節度使は廃止されて、
汴州は淮西節度使の本拠となった。
河南地域は回復されていった。
・河南節度使が汴州に復置され汴宋曹徐穎兗鄆濮八州を管轄するようになり、
降將の獻誠が節度使となった。
・しかし重要地域である河南道を降將に任せることは危険であり、獻誠もまた強硬な賊黨では
なかったため、廣二年[764年]山西節度使に移し、平盧軍あがりの武将田神功を節度使とした。
・隣鎭の永平令狐彰[降將だが従順]・淄青侯希逸[同じ平盧軍出身]などとともに連携し神功
が大暦9年[774年]に卒するまで、河南は安定していった。9年より11年までは弟神玉が後任とな
ったが、魏博田承嗣の反乱の影響が徐々に及んできていた。
・大暦11年[776年]神玉が卒すると、將李靈耀が承嗣の支援を受けて自立しようとした。
唐朝は淮西李忠臣・淄青李正己・永平李勉らに征討させた。
・反乱は内部分裂と、李忠臣の勇戦により鎮定されたが、徐鄆曹兗濮州は平盧の領州となり、
宋泗二州は永平に、汴州は忠臣に与えられ、河南節度使は廃止されて、
汴州は淮西節度使の本拠となった。