唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

陝虢都団練観察使 保義軍節度使 その3

2012-03-19 13:40:37 | Weblog
・重盈は河中とともに京師回復に一定の働きはしたが小鎭のため限界のあるものであった。
・中和三年[883年]節度使に昇格した。
・光啓元年[885年]重盈は使相となった。この時期唐朝は使相を乱発しているので価値はない。
・光啓三年[887年]河中重榮が殺されると、重盈は急遽河中に移り継承した。陝虢は子の珙に嗣がせた。
・龍紀元年[889年]陝虢節度使は保義軍節度と號された。
・乾寧二年[895年]重盈が河中で卒し、後を養子の珂が嗣ぐと、実子の珙達は不満で、鳳翔李茂貞や
邠寧王行瑜、鎭国韓建と組んで河中を攻撃しようとした。しかし珂には舅である河東李克用が附き大乱となった。
・乾寧4年[897年]・光化元年[898年]の攻撃はいずれも敗退し、光化2年[899年]6月には珙は横暴を
怒った將李璠に殺され、さらに11月將朱簡により璠も殺された。簡は全忠の配下に入り、友謙と改名した。
・以降陝虢は全忠の支配下となった。
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