婁師。字は宗仁。
鄭州原武人。
進士に合格し江都尉。
揚州長史盧承業に評価される。
上元初に監察御史となり対吐蕃策を提案。
仮に朝散大夫となり吐蕃を討ち功績があり
殿中侍御史兼河源軍司馬並知營田事。
天授初に左金吾將軍兼檢校豐州都督仍依舊知營田事として営田に功績。
長壽元年夏官侍郎判尚書事。
二年同鳳閣鸞台平章事として相となる。
河源積石懷遠等軍及河蘭鄯廓等州檢校營田大使として吐蕃防衛にあたる。
秋官尚書にうつる。
萬歲登封元年,左肅政御史大夫平章事・原武縣男。
證聖元年吐蕃に素羅汗山で大敗し、貶原州員外司馬。
萬歲通天二年再び起用され鳳閣侍郎同鳳閣鸞台平章事。
兼檢校右肅政御史大夫仍知左肅政台事として契丹防衛に。
神功元年納言・譙縣子となる。
ついで充隴右諸軍大使仍檢校河西營田事として吐蕃防衛。
聖歷二年突厥入寇,復令檢校并州長史仍充天兵軍大總管。
是歲九月に70才で卒する,贈涼州都督,謚曰貞。
才能を表に出さず、常に温厚謙譲を貫き敵を作ることを避け、
則天の疑いを招かず、酷吏の糾弾に遭わなかった。
「人から唾を吐きかけられたら、だまって拭わずいろ、
拭うことは反抗を示すことだ」
という言葉がそれを表す。
狄仁傑を推薦したことでも知られる。
[宰相履歴]
①長壽2年1月夏官侍郎同鳳閣鸞臺平章事
~延載元年2月秋官尚書充河源積石懷遠等軍營田大使
~萬歳通天元年1月左肅政臺御史大夫肅邊道行軍總管~4月貶州司馬
②神功元年正月守鳳閣侍郎同鳳閣鸞臺平章事~5月清邊道行軍副大總管
~6月安撫河北~9月守納言~聖暦元年4月隴右諸軍大使仍檢校河西營田事
~2年3月納言~4月天兵軍副大總管~充隴右諸軍大使~8月薨
鄭州原武人。
進士に合格し江都尉。
揚州長史盧承業に評価される。
上元初に監察御史となり対吐蕃策を提案。
仮に朝散大夫となり吐蕃を討ち功績があり
殿中侍御史兼河源軍司馬並知營田事。
天授初に左金吾將軍兼檢校豐州都督仍依舊知營田事として営田に功績。
長壽元年夏官侍郎判尚書事。
二年同鳳閣鸞台平章事として相となる。
河源積石懷遠等軍及河蘭鄯廓等州檢校營田大使として吐蕃防衛にあたる。
秋官尚書にうつる。
萬歲登封元年,左肅政御史大夫平章事・原武縣男。
證聖元年吐蕃に素羅汗山で大敗し、貶原州員外司馬。
萬歲通天二年再び起用され鳳閣侍郎同鳳閣鸞台平章事。
兼檢校右肅政御史大夫仍知左肅政台事として契丹防衛に。
神功元年納言・譙縣子となる。
ついで充隴右諸軍大使仍檢校河西營田事として吐蕃防衛。
聖歷二年突厥入寇,復令檢校并州長史仍充天兵軍大總管。
是歲九月に70才で卒する,贈涼州都督,謚曰貞。
才能を表に出さず、常に温厚謙譲を貫き敵を作ることを避け、
則天の疑いを招かず、酷吏の糾弾に遭わなかった。
「人から唾を吐きかけられたら、だまって拭わずいろ、
拭うことは反抗を示すことだ」
という言葉がそれを表す。
狄仁傑を推薦したことでも知られる。
[宰相履歴]
①長壽2年1月夏官侍郎同鳳閣鸞臺平章事
~延載元年2月秋官尚書充河源積石懷遠等軍營田大使
~萬歳通天元年1月左肅政臺御史大夫肅邊道行軍總管~4月貶州司馬
②神功元年正月守鳳閣侍郎同鳳閣鸞臺平章事~5月清邊道行軍副大總管
~6月安撫河北~9月守納言~聖暦元年4月隴右諸軍大使仍檢校河西營田事
~2年3月納言~4月天兵軍副大總管~充隴右諸軍大使~8月薨