尚書省のトップである尚書令
唐初武徳年間に秦王世民(太宗)がついていたため
それを敬して欠員になり、左右僕射が実質長官となった。
その僕射も睿宗時に宰相からはずれた[平章事を兼ねた場合は別だが]
廣徳二年十二月吐蕃の侵攻を撃退した部将郭子儀を褒賞するために
太尉と尚書令が与えられたが、子儀は両職とも辞退した。
その後唐末に跋扈した邠寧節度使王行瑜が要求したが拒否されて乱した。
また鳳翔節度使李茂貞が任ぜられたようだが[新唐書宰相表には記載なし]
始任年月は不明、天祐年間に朱全忠を怖れて中書令への降格を申し出た事
の記載がある。
唐初武徳年間に秦王世民(太宗)がついていたため
それを敬して欠員になり、左右僕射が実質長官となった。
その僕射も睿宗時に宰相からはずれた[平章事を兼ねた場合は別だが]
廣徳二年十二月吐蕃の侵攻を撃退した部将郭子儀を褒賞するために
太尉と尚書令が与えられたが、子儀は両職とも辞退した。
その後唐末に跋扈した邠寧節度使王行瑜が要求したが拒否されて乱した。
また鳳翔節度使李茂貞が任ぜられたようだが[新唐書宰相表には記載なし]
始任年月は不明、天祐年間に朱全忠を怖れて中書令への降格を申し出た事
の記載がある。