唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

睿宗前史

2020-07-12 10:00:04 | Weblog
睿宗前史
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相王旦[睿宗]は高宗と則天の末子、則天の立后以降の高宗の他子は、則天により密かに処理されたのでしょう。

龍朔二年[662年]七月に生まれ、十月には殷王となった。その後豫王、冀王、相王、豫王と次々に移り、改名も輪、旦と変わります。

嗣聖元年[684年]二月中宗が廃されると代わって即位しました。もちろん則天の傀儡でなんの権限もありません。

天授元年[690年]九月則天が即位する。皇帝から皇嗣に降り、賜姓武氏となりました。

長壽二年[693年]正月妃の劉氏と竇氏を則天に殺されました。

一月、裴匪躬や范雲仙が則天の許可を得ず皇嗣に謁見したとして殺され、皇嗣も取り調べられました。
工人安金藏が誣告に憤慨して切腹するという事件に則天が驚いて事なきを得ました。

萬歲通天二年[697年]來俊臣が皇太子・皇嗣・武氏を誣告するが成りません。

聖暦元年[698年]兄廬陵王が赦され入京しましたので、皇太子[皇嗣]を譲り、相王に降ります。
いろいろな元帥・大将軍・官職に就くがすべて虚名です。

神龍元年[705年]正月中宗が即位し、號安國相王,太尉同鳳閣鸞台三品となるがすぐ辞します。

神龍三年[707年]皇太子重俊の乱に坐していると韋后派の蘇珦に弾劾されますが、中宗は採りません。

景龍四年/唐隆元年[710年]六月、韋后等が中宗を毒殺し、溫王重茂を擁立し、安國相王を參謀政事としますが、すぐ太尉へ。その後子の臨淄王隆基等が蜂起し韋后派を殺害し、父相王を即位させました。

彼は中宗ほど腑抜けではないようですが、母則天を懼れ、ひたすら危険を伴う権力から逃避しています。
この再度の即位もありがた迷惑であったかもしれません。