中宗前記2 廃帝以降は廬陵王
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嗣聖元年[684]二月戊午に則天により廃位され、名目上は弟相王[睿宗]に譲位させられました。
子の皇太孫重照は庶人とされ、皇后韋氏の一族は欽州に流されやがて殺されます。
四月、廬陵王に降され、山西の房州から均州へ流されます。ここは太宗の子魏王泰が流された所です。
九月、淮南で李敬業[勣の子]が反乱しますが、名目は中宗の復位です。
垂拱元年[685]三月房州へ遷されます。
垂拱三年[687]九月虢州人楊初成が中宗の復位を唱えて蜂起しますが誅殺されます。
萬歳通天二年[697]、酷吏來俊臣が武一族・睿宗・中宗を含む大規模な誣告をしますが、さすがに則天も認めず俊臣のほうが誅殺されます。
聖暦元年[698]宰相達や則天の寵臣張易之・昌宗等は武氏からの立太子を懼れ、廬陵王の召し返しを勧めます。老齢で弱気になってきた則天も同意し、三月廬陵王は東都に戻されます。
九月、皇嗣[睿宗]の辞退があり、廬陵王が皇太子に戻されます。復名顯。
大足元年[701]九月、張易之の誣告により、皇太子と韋氏の子邵王重潤と妹永泰郡主、主婿魏王武延基が謀叛の罪で殺されます。韋氏[韋后]としてはただ一人の男子でした。
廬陵王[中宗]は元々軟弱なうえ、長い配流生活などで、勅使が来る度に脅えて自殺を試みるなど精神的にスポイルされた人間でした。強気な妻の韋后に励まされなんとか生きて来ました。[将来復位することあったら、お前になんでも好きなことをさせてやる]というのが口癖だったと言われています。
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嗣聖元年[684]二月戊午に則天により廃位され、名目上は弟相王[睿宗]に譲位させられました。
子の皇太孫重照は庶人とされ、皇后韋氏の一族は欽州に流されやがて殺されます。
四月、廬陵王に降され、山西の房州から均州へ流されます。ここは太宗の子魏王泰が流された所です。
九月、淮南で李敬業[勣の子]が反乱しますが、名目は中宗の復位です。
垂拱元年[685]三月房州へ遷されます。
垂拱三年[687]九月虢州人楊初成が中宗の復位を唱えて蜂起しますが誅殺されます。
萬歳通天二年[697]、酷吏來俊臣が武一族・睿宗・中宗を含む大規模な誣告をしますが、さすがに則天も認めず俊臣のほうが誅殺されます。
聖暦元年[698]宰相達や則天の寵臣張易之・昌宗等は武氏からの立太子を懼れ、廬陵王の召し返しを勧めます。老齢で弱気になってきた則天も同意し、三月廬陵王は東都に戻されます。
九月、皇嗣[睿宗]の辞退があり、廬陵王が皇太子に戻されます。復名顯。
大足元年[701]九月、張易之の誣告により、皇太子と韋氏の子邵王重潤と妹永泰郡主、主婿魏王武延基が謀叛の罪で殺されます。韋氏[韋后]としてはただ一人の男子でした。
廬陵王[中宗]は元々軟弱なうえ、長い配流生活などで、勅使が来る度に脅えて自殺を試みるなど精神的にスポイルされた人間でした。強気な妻の韋后に励まされなんとか生きて来ました。[将来復位することあったら、お前になんでも好きなことをさせてやる]というのが口癖だったと言われています。