天寶元年 西暦742年
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開元が三十年となり長すぎると考えたのか、道教の影響を受けた天寶に改元します。唐朝は姓が「李」であり「老子」の末裔という名目で道教を尊重するのです。
正月甲寅,陳王府參軍田同秀言:「玄元皇帝降于丹鳳門通衢。」
二月丁亥,群臣上尊號曰開元天寶聖文神武皇帝。
老耄した玄宗に官僚達が迎合します。
中書令為右相,東都為東京,北都為北京,州為郡,刺史為太守。
名称の変更が相継ぎます。諸州刺史も太守と呼称されます[乾元元年まで]
三月以長安令韋堅為陝郡太守,領江、淮租庸轉運使。
太子妃一族の韋堅が起用され、京師の食糧問題の解決が計られます。
各地に節度使が置かれ、傭兵49万が配置されます。それだけの大軍を維持するのは大きな財政的負担ですが、税制整備は不十分で、今の日本のようで、国家全体としては繁栄していますが政府財政は破綻しかけています。しかし玄宗は女[楊貴妃]狂いで、国政は李林甫任せです。
ただ兵制が整備されたので対外的には則天以来の弱兵を脱しています。
七月辛未,牛仙客薨。八月丁丑,刑部尚書李適之為左相。
うなずき役の仙客が亡くなり、林甫は適之を補充します。林甫は悪役ですが、玄宗好みの文学者を排除し、行政能力のあるものを登用し、わがままな官僚達を統制して、広大な唐帝国をなんとか維持しようとしています。彼の生きている間はなんとかなっているのです。
十二月戊戌,隴右節度使皇甫惟明及吐蕃戰于青海,敗之。
庚子,河西節度使王倕克吐蕃漁海、游奕軍。
朔方軍節度使王忠嗣及奚戰於紫乾河,敗之,遂伐突厥。
王忠嗣が活躍し始めます。
天寶二年 西暦743年
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正月乙卯,作升仙宮。三月壬子,享于玄元宮。改西京玄元宮曰太清宮,東京曰太微宮。
玄宗は道教に狂っています。
李林甫は領吏部尚書となりましたが、実務は侍郎宋遙、苗晉卿に任せています。
ところが文学好きの玄宗が、合格者の首席を再試験してみるとまったく解答できないような人物であったため、遙や晉卿は左遷されます。文学者を排除して実務者を登用したい林甫の方針でしょうか。
四月加韋堅左散騎常侍,其僚屬吏卒褒賞有差;名其潭曰廣運。
黄河と京師を結ぶ新運河が完成しました。しかしこれだけではまだ漕運は解決しません。
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開元が三十年となり長すぎると考えたのか、道教の影響を受けた天寶に改元します。唐朝は姓が「李」であり「老子」の末裔という名目で道教を尊重するのです。
正月甲寅,陳王府參軍田同秀言:「玄元皇帝降于丹鳳門通衢。」
二月丁亥,群臣上尊號曰開元天寶聖文神武皇帝。
老耄した玄宗に官僚達が迎合します。
中書令為右相,東都為東京,北都為北京,州為郡,刺史為太守。
名称の変更が相継ぎます。諸州刺史も太守と呼称されます[乾元元年まで]
三月以長安令韋堅為陝郡太守,領江、淮租庸轉運使。
太子妃一族の韋堅が起用され、京師の食糧問題の解決が計られます。
各地に節度使が置かれ、傭兵49万が配置されます。それだけの大軍を維持するのは大きな財政的負担ですが、税制整備は不十分で、今の日本のようで、国家全体としては繁栄していますが政府財政は破綻しかけています。しかし玄宗は女[楊貴妃]狂いで、国政は李林甫任せです。
ただ兵制が整備されたので対外的には則天以来の弱兵を脱しています。
七月辛未,牛仙客薨。八月丁丑,刑部尚書李適之為左相。
うなずき役の仙客が亡くなり、林甫は適之を補充します。林甫は悪役ですが、玄宗好みの文学者を排除し、行政能力のあるものを登用し、わがままな官僚達を統制して、広大な唐帝国をなんとか維持しようとしています。彼の生きている間はなんとかなっているのです。
十二月戊戌,隴右節度使皇甫惟明及吐蕃戰于青海,敗之。
庚子,河西節度使王倕克吐蕃漁海、游奕軍。
朔方軍節度使王忠嗣及奚戰於紫乾河,敗之,遂伐突厥。
王忠嗣が活躍し始めます。
天寶二年 西暦743年
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正月乙卯,作升仙宮。三月壬子,享于玄元宮。改西京玄元宮曰太清宮,東京曰太微宮。
玄宗は道教に狂っています。
李林甫は領吏部尚書となりましたが、実務は侍郎宋遙、苗晉卿に任せています。
ところが文学好きの玄宗が、合格者の首席を再試験してみるとまったく解答できないような人物であったため、遙や晉卿は左遷されます。文学者を排除して実務者を登用したい林甫の方針でしょうか。
四月加韋堅左散騎常侍,其僚屬吏卒褒賞有差;名其潭曰廣運。
黄河と京師を結ぶ新運河が完成しました。しかしこれだけではまだ漕運は解決しません。