唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

寶暦元年 西暦824年

2020-07-05 10:00:39 | Weblog
寶暦元年 西暦824年
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正月大赦,改元。

鄠令崔發が横暴な宦官を処罰したことを怒った敬宗が、發を捕らえて宦官達に殴打させました。宰相達が諫め釈放を請いましたがなかなか敬宗はききませんでした。

正月乙卯,牛僧孺罷。
敬宗の馬鹿さ加減に呆れた僧孺は、自ら鄂岳節度使に出ました。

九月壬午,昭義軍節度使劉悟卒,其子從諫自稱留後。
本来、昭義節度使は河北と違い内地の方鎭であり世襲は許されません。悟が死んだ後從諫の多額の贈賄を受けた宰相李逢吉や宦官王守澄等は世襲を認めてしまいました。

宝暦二年 西暦825年
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正月甲戌,發神策六軍穿池於禁中。三月戌寅,觀競渡于魚藻宮。
敬宗は、仲間の宦官とポロや力士[レスリング的なもの、敬宗も参加します]毎日遊びほうけていました。

四月戊戌,橫海軍節度使李全略卒,其子同捷反。
昭義節度使に許されるなら我々もと横海同捷が世襲を要求してきました。当面放置です。

李逢吉等の牛党の立場としては、金がかかり軍人達が増長する軍事行動をできるだけせずに、財政再建に努める[宦官・官僚の腐敗により建前だけですが]というのが方針です。また愚帝続きではどうしようもなかったとも言えます。

五月庚辰,幽州盧龍軍亂,殺其節度使朱克融,其子延嗣自稱節度使。
自立したと言え人望がなかった克融は殺されました。一応少子の延嗣が継承することになりました。唐朝口出しする権利も意志もありません。

六月辛酉,觀漁于臨碧池。甲子,觀驢鞠、角牴於三殿。八月丙午,觀競渡于新池。
九月甲戌,觀百戰于宣和殿,三日而罷。
お遊びはよりエスカレートしていきます。敬宗は仲間とふざけあい、ちょっと気に入らないと処罰するというどうしようもない馬鹿です。

九月戊寅,幽州盧龍軍兵馬使李載義殺朱延嗣,自稱留後。
やはり子供では幽州節度使はつとまりません。載義は唐朝にすりよる傾向を示します。

九月壬午,李程罷。十一月甲申,李逢吉罷。
牛党宰相が解任されていきます。

十二月,中官劉克明反。辛丑,皇帝崩,年十八。
遊びほうけていた敬宗は仲間に殺されてしまいます。克明等の遊び仲間は慌てて絳王悟を擁立しようとしますが、王守澄や梁守謙など宦官主流派は真面目な江王[文宗]を擁立し、克明等を誅殺します。敬宗の馬鹿さ加減は宦官達からみても行き過ぎだったのでしょう。