唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

長慶元年 西暦821年

2020-07-02 10:01:00 | Weblog
長慶元年 西暦821年
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正月大赦,改元
恒例の即位翌年の改元です。

正月壬戌,蕭俛罷。
二月壬午,段文昌罷。杜元潁同中書門下平章事。
俛や文昌は自分達が凡才であることを自覚し、避退しようとしました。自覚のない杜元潁が代わって就任しました。

二月己卯,劉總以盧龍軍八州歸於有司。
丁巳,赦幽、涿、檀、順、瀛、莫、營、平八州死罪以下,給復一年。賜盧龍軍士錢。
河北三鎭で最後に残った幽州劉總が帰順しました。總は父や兄を殺害して自立したことを悔い、自責の念を逃れるため出家を強く希望していました。總は幽州軍の統治が困難な事を熟知していましたので、不満分子達を京師に送り神策軍にいれること、幽州を三分割して弱体化させることを提案していました。
◎劉總を天平節度使(赴任できず、中途で亡くなりました)
◎張弘靖 宣武節度使から幽州節度使へ(元宰相で、韓弘のあとの宣武軍をよく慰撫していました)
◎盧士玫 權知京兆尹から瀛莫觀察使へ
   
しかし無能な穆宗皇帝と、元潁・崔植などの高官は、思い上がりと財政の回復のみを憂慮し、幽州の不満分子を送り返し、幽州は二分割だけとし、不満の残る成徳軍節度使田弘正の親衛軍の経費を削りました。

七月甲辰,幽州盧龍軍都知兵馬使朱克融囚其節度使張弘靖以反。
弘靖は有能な官僚でしたが、3代宰相が続く名門貴族の出身であるため、幽州軍の特殊性を理解していませんでした。そこでは主帥と兵士達の関係が民主的で、主従の関係ではありません。弘靖の幕僚達も、唐朝麾下の方鎭での治策がそのまま通用すると思っていました。京師から手ぶらで帰された克融達は、劉總が危惧したように不満をつのらせて蜂起しました。

七月壬戌,成德軍大將王廷湊殺其節度使田弘正以反。
成徳軍は敗北したわけではなく野性味をつよく残していました。節度使田弘正は魏博出身のためその危険性を十分承知していて、魏博から親兵三千を引き連れ護衛させていました。ところが唐朝の宰相は理解せず、その経費を削ったため解散させねばならず、それを知った廷湊達が蜂起したわけです。廷湊達は幽州克融と事前連携していたことは間違いありません。

八月壬申,朱克融陷莫州。癸酉,王廷湊陷冀州。
丙子,瀛州軍亂,執其觀察使盧士攻,叛附於朱克融。王廷湊寇深州。
反乱はたちまち拡大し、幽州・成德は失われていきました。
唐朝は昭義節度使劉悟を幽州節度使にしましたが、討伐不能とみた悟は断りました。

八月丁丑,魏博、橫海、昭義、河東、義武兵討王廷湊。
唐朝は狼狽しましたが、穆宗即位後のバラマキもあり財政困難です。金がないのでは征討軍も本気で動きません。

十月丙寅,諸道鹽鐵轉運使、刑部尚書王播為中書侍郎、同中書門下平章事。
財政屋の王播を登用し軍費調達をしようとしました。

十月、河東裴度為鎮州西面行營都招討使。左領軍衛大將軍杜叔良為深州諸道行營節度使。
文官裴度と、神策出身の叔良では討伐できるとは思えません。本来主帥となるべきは魏博李愬でしたが、愬は重病でした。弘正の子布に交代しなければなりませんでした。

己卯,柳公濟及朱克融戰于白石,敗之。橫海軍節度使烏重胤及王廷湊戰于饒陽,敗之。
十一月甲午,裴度及王廷湊戰於會星,敗之。丙申,朱克融寇定州,義武軍節度使陳楚敗之。
唐朝軍のいつもの「勝ちました」が続きます。恩賞狙いの報告です。

十二月庚午,杜叔良及王廷湊戰於博野,敗績。
征討主力軍は大敗して、無能な叔良は遁走しました。

十二月乙酉,赦朱克融。
幽州・成德の両方は無理とみて、帥を殺害せずにいた克融のほうだけ赦します[節度使就任を認める]が効果はありません。
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