唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

河陽節度使史2

2020-10-03 10:00:03 | Weblog
永貞元年[805年]
◎.2月 河陽三城行軍司馬元韶が懷州刺史河陽懷州節度使に昇進した。
德宗末からの姑息な節度使人事の典型である。まず行軍司馬とし、軍内の異論がなければ昇進させる。憲宗より中央からの直轄人事が行われるようになった。
◎.9月 河陽三城節度使元韶卒。陳州刺史兼御史大夫孟元陽が検校尚書兼御史大夫懷州刺史河陽三城孟懷節度使となった。
「孟」州とあるが河陽が孟州になったのははるかに後の會昌三年[843年]である。
元陽は忠武軍節度曲環に將とされ、営田等に極めて有能。環の没後の吳少誠の来寇を撃退し陳州刺史。韓全義の敗戦を終始の功績があり、加御史大夫。

元和五年[810年]
◎.4月 昭義節度使盧従史は、王承宗と内通していたとして捕らえられ、それを執行した昭義都知兵馬使潞州左司馬烏重胤は懷州刺史河陽三城懷州節度使に昇進し、河陽節度使孟元陽は潞州長史昭義軍節度澤潞磁邢洺觀察使となった。重胤を昭義節度という案もあったが、牙軍との癒着を懼れた宰相李絳はあえて転任させた。張掖郡公。

元和九年[814年]
◎.閏8月 河陽節度使烏重胤は懷州刺史から汝州刺史河陽懷汝節度使へとなり移治した。
元和7年8月魏博節度田季安が卒し、幼少の懷諫が嗣いだが、牙軍は一族の都知兵馬使田興を擁立した。興[賜名され弘正]は唐朝に従う姿勢を見せ、河北の情勢は唐朝に有利に傾いた。憲宗は対魏博防衛のために黄河の北、懷州に配置されていた河陽軍を、対淮西征討のために南の汝州を河陽節度に加えて移し、弘正を信任していることを表明した。

元和十年[815年]
◎.11月 李光顏、烏重胤敗淮西兵于小殷水,拔其城。

元和十一年[816年]
◎.4月 李光顏、烏重胤奏敗淮西兵于陵雲柵,斬首三千級。
◎.5月 李光顏、烏重胤奏敗淮西兵于陵去柵,斬首二千餘級。
◎.9月 李光顏、烏重胤奏拔呉元濟陵雲柵。
対淮西征討の主戦線である陵雲柵では、諸軍の中で忠武李光顏と河陽烏重胤だけがまともに戦っていた。しかし董重質に率いられた淮西軍は強く、遅々とした戦果しか挙がらなかった。

元和十二年[817年]
◎.8月 李光顏、烏重胤與淮西戰,癸亥,敗于賈店。
進展しない淮西征討を督戦するために宰相裴度が彰義節度使仍充淮西宣慰招討處置使として自ら赴任してきた。しかし淮西軍の奇襲により遁走する体たらくであった。
◎.10月 主戦線で両軍が対峙する中、側面から唐隋鄧節度使李愬が淮西治所の蔡州を奇襲し呉元濟を捕らえ、淮西軍は降伏した。
◎.11月 重胤は検校右僕射から檢校司空。進邠國公。淮西戦役の恩賞である。

元和十三年[818年]
◎.5月 河陽都知兵馬使曹華が棣州刺史となり赴任し、商河県を回復し、橫海節度副使を兼任した。
◎.6月 重胤は汝州から懷州に復治した。方鎭表では汝州は東都に戻されたようである。淮西征討が終了し、再び成徳など対河北が重視されるようになった。
◎.11月 河陽節度使鳥重胤を鄭權に代えて滄州刺史橫海軍節度滄景德棣觀察等使とする。
華州刺史令狐楚が懷州刺史充河陽三城懷孟節度使となる。
重胤は河陽の精兵三千を率いて横海に向かったが、兵は移鎭を好まず途中で潰乱して戻り、賊になろうとした。楚は慰撫して復軍させた。

元和十四年[819年]
◎.7月 河陽三城懷州節度使朝議郎使持節懷州諸軍事守懷州刺史兼御史大夫賜紫金魚袋令狐楚を朝議大夫中書侍郎同中書門下平章事として宰相となる。
楚は宰相皇甫鎛と同年進士合格で親しく、程异没後の補任として推薦された。
◎.前黔中觀察使魏義通が懷州刺史河陽三城懷孟節度使となる。

元和十五年[820年]
◎.10月 左金吾將軍兼御史大夫田布為檢校左散騎常侍兼懷州刺史御史大夫充河陽三城懷孟節度使。魏義通は右龍武統軍へ。
成徳節度使が王承元により唐朝に主権が返され、布の父魏博田弘正は成徳節度使となり、魏博へは唐朝から昭義節度使李愬が入った。布の赴任は弘正への信任を示すものである。

長慶元年[821年]
◎.正月 河陽懷節度使田布と涇州刺史充四鎮北庭行營涇原節度使なり、刑部尚書兼司農卿郭釗が檢校戸部尚書懷州刺史充河陽三城懷節度使となった。
釗は郭子儀の孫で、穆宗皇帝の義父にあたる。誠実だが凡才である。

長慶二年[822年]
◎.8月 東都留守陳楚を検校左僕射兼御史大夫河陽懷節度使。郭釗は9月河中尹兼河中絳隰等州節度使へ。
7月、宣武節度使李愿が放逐され、軍才のない郭釗では到底対応できなかった。またあわてて7月に陳楚を東都留守に任命したが、留守への武官就任は例がないと指摘されたため急遽移動した。楚は義武節度使張茂昭の甥で、茂昭と共に帰朝した武将。

長慶三年[823年]
◎.2月 陳楚は治所を河陽三城に移したが、門戟がないため懷州の門戟を移した。
[門戟とは邸宅・城門等に格を示すために戟を並べたとあるが?、日本の藩校にあるような戟門の意味か?]
◎.病により辞し右龍武/羽林統軍となって、この歳に卒した。61歳。贈司空。
◎ 崔宏禮/弘禮が河南尹兼御史大夫東都畿汝州都防御副使より河陽節度使に。宏禮は進士出身で使府幕僚を歴任し有能果断なため宣武軍乱に対処するため河南尹となっていた。
◎ 河內の用水路を作り、開田千頃,歲收八萬斛。また軍備を充実する実績を上げた。
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