唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

邠寧節度使史10

2020-10-24 19:54:18 | Weblog
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蘇文建
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◎.前歴不明

乾寧二年[895]
◎.7月に 李克用によって占領した同州匡国軍節度使に任用。
◎.10月に 克用によって邠寧静難軍節度使に任用され、寧州に入る。
◎.11月に 占領後の邠州に入る。加同平章事。

乾寧三年[896]
◎. 克用が引き揚げると鳳翔李茂貞に逐われたようである。

乾寧四年[897]
◎.3月 山西の利州に昭武軍節度使が置かれ蘇文建が節度使になったとされるが、すでに利州は西川王建の支配下であり現実性はない。

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拓抜/李思諫
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拓抜氏は武宗・宣宗時の黨項です。この時代唐朝の北邊[朔方・夏綏・振武・大同管内]は拓抜・契苾・赫連・沙陀[朱邪]氏に占拠されています。拓抜氏は思孝が黄巣の乱に京師回復に貢献し、賜姓[李]をされていて、弟の思諫・思恭が活躍し鄜坊丹延節度まで南下占領してきています。

乾寧二年[895]
◎.8月 定難節度使李思諫が邠寧東面/東北面招討使として王行瑜を討つ。

乾寧三年[896]
◎.9月 前定難節度使李思諫為靜難節度使兼副都統。蘇文建が逐われた跡か、入部はではていないようだ。

乾寧四年[897]
◎.正月 副都統李思諫為寧塞軍節度使。邠寧が確保できないので延州を与えられたのかも。
◎.8月 靜難軍節度使李思諫為鳳翔四面行營副都統,以討李茂貞。史料は混乱しています。

なぜか思諫は李茂貞の麾下となって洋州武定軍節度使として名前がでてきます。支離滅裂です。

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孫儲
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文官です。全唐文に「授孫儲邠州節度使制」があります。錯誤でしょう。

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李繼徽/楊崇本
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◎. 本名は楊崇本、幼時から李茂貞の養子で、長じて將となる。

乾寧三年[896]
◎. 秦州天雄留後から節度使となる。茂貞麾下。

乾寧四年[897]
◎.2月 侵攻してきた王建將王宗謹と玄武に戦う。
◎.7月 天雄節度使から邠寧靜難節度使に移る。

天復元年[901]
◎.10月 朱全忠が昭宗を拉致した李茂貞を鳳翔に攻囲、繼徽は茂貞を支援しようとするが、邠州を攻められ、妻子を質として降る。改名して「楊崇本」。全忠の麾下となり邠州の統治はそのまま許される。

天復四年/天祐元年[904]
◎.正月以前 朱全忠は女癖が悪く、家臣や息子達の妻や娘を姦することが多かった。人質となった楊崇本の妻も犯された。崇本は憤激し茂貞に帰属した。復名「李繼徽」。
◎.6月 李茂貞・王建・李繼徽は朱全忠討伐を宣言した。
◎.9月 朱全忠は永壽・駱谷に至ったが、鳳翔・邠寧兵は臆してでてこなかった。

天祐三年[903]
◎.9月 崇本は鳳翔保塞彰義保義兵をもって全忠方の夏州を攻めた。
全忠下匡國節度使劉知俊は茂貞方の坊州兵を破った。
◎.10月 夏州救援のため、全忠將劉知俊・康懷英が楊崇本兵五萬を美原に大破した。
◎.11月 劉知俊・康懷貞は鄜、延等五州を陥した。
◎. 茂貞・繼徽は全忠に圧迫され逼塞し唐の滅亡を傍観した。

天祐十四年/後梁乾化四年[914年]
◎.12月 子の彦鲁に毒殺された。彦鲁はまた繼徽の養子保衡に殺され、保衡は後梁に降った。
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邠寧節度使史9

2020-10-24 19:54:18 | Weblog
王行瑜[邠州人]
◎. 邠寧軍に属し、朱玫に従い將となる。黃巢征討に功績あり。

光啓二年[886]
◎. 煴が即位すると、領天平節度使[単なる称号でしかない]となり、大散關を守る。
◎.12月 楊復恭は王行瑜に邠寧節度使を与えると働きかけ、敗戦が続いて責任を問われることを懼れた行瑜はそれに応じた。行瑜は鳳州より勝手に京師に帰還し、玫を殺した。

光啓三年[887]
◎正月. 邠州都將王行瑜は約束どうり邠寧靜難軍節度使となった。

大順元年[891]
◎. 宰相張濬・孔緯は宣武朱全忠と組んで、河東李克用を攻めようとした。昭宗皇帝や宦官楊復恭は不同意だったが押し切られた。
◎.5月 張濬の征討軍は邠寧、鄜、夏雜虜等で五萬人であった。
◎.6月 張濬は宣武、鎮國、靜難、鳳翔、保大、定難諸軍を晉州に合同させた。
◎.10月 邠寧節度使王行瑜に加侍中。官職インフレである。
◎. 靜難、鳳翔、保大、定難之軍は李克用軍に陰地で敗北し黄河西へ逃れた。

景福元年[893]
◎.正月 鳳翔李茂貞、靜難王行瑜、鎮國韓建、同州王行約[行瑜弟]、秦州李茂莊など五節度使が、「山西興元に拠る楊守亮・復恭を討ちたい、茂貞を山南西道詔討使にして欲しい」と上奏した。昭宗皇帝は是認しなかったが、茂貞等は強要した。
◎.2月 李茂貞、王行瑜は命をまたず興元を攻めた。やむをえず茂貞を山南西道招討使とした。
◎.5月 邠寧節度使王行瑜加兼中書令。

景福二年[894]
◎.8月 茂貞は傲慢な上奏をし、怒った昭宗は茂貞を討とうとした。宰相崔昭緯は茂貞・行瑜と結託していて情報を常に流していた。嗣覃王嗣周が京西招討使として茂貞を討った。行瑜は茂貞側にいた。
◎.9月 覃王嗣周率いる弱体な禁軍三萬は興平で、茂貞・行瑜連合軍六萬に一蹴され潰滅した。茂貞等は京師に侵攻した。
◎. 茂貞等は宰相杜讓能や観軍容使宦官西門重遂を殺し、自派の宦官駱全瓘、劉景宣を両軍中尉とした。
◎.11月 増長した邠寧節度使守侍中兼中書令王行瑜は尚書令[郭子儀と同格]となることを求めた。さすがに認められず、太師賜號尚父となり鐵券を与えられた。しかし唐朝は後に茂貞に尚書令を与えている。

乾寧元年[895]
◎.12月 行瑜弟同州匡國節度使王行約が檢校待中となった。

乾寧二年[896]
◎.正月 河中節度使王重盈が卒し、養子の珂[河東李克用の婿]が相続した。実子の陝虢節度使珙や晉州刺史瑤は不服で、朱全忠や茂貞や行瑜と組んで征討を唐朝に求めた。克用は当然珂の継承を認めるように求めた。
◎.5月 増長している行瑜は尚書令になれないのが不満であり、京畿神策軍の良原鎮を移籍してもらえないのも不満であった。そして河中の継承に干渉し、唐朝の許可も得ず弟匡國節度使行約に河中を攻めさせた。
◎. 行瑜・茂貞・韓建は京師に侵入し、元宰相韋昭度・李磎や宦官樞密使康尚弼等を殺した。そして昭宗皇帝を廃して吉王保を擁立しようとした。
◎. ところが河東李克用が起兵し侵攻してくることを聞き、あわてて自鎭に退却した。
◎.7月 李克用は王行瑜・李茂貞・韓建を討つとして大舉して南下した。
◎. 克用は絳州を陥し、刺史王瑤を殺し河中に入り王珂と合同した。
◎. 克用は匡國節度使王行約を朝邑に破り、行約は同州を捨てて京師へ敗走。弟の神策左軍指揮使行實・右軍指揮使李繼鵬[茂貞假子.閻珪]・自派の宦官中尉劉景宣・樞密使駱全瓘が昭宗を邠州に拉致しようとした。
◎. 昭宗は諸王と側近を連れ、神策将李筠・李居實に守られ石門に逃げた。
◎.8月 克用は進軍して昭宗を確保した。
◎. 克用將李存信・李存審・保大節度使李思孝は王行瑜軍を黎園寨に破った。
◎. 李茂貞は懼れて、李繼鵬に責任を押しつけて殺し、偽り降った。
◎. 王行瑜追討が命ぜられ、李克用は邠寧四面行營都招討使となり、保大李思孝・定難李思諫・彰義張鐇を率いて討つことになった。
◎.9月 克用は行瑜軍を梨園に攻め、雲陽に破った。
◎.10月 克用軍は邠寧軍を梨園北に破り、梨園を包囲し陥した。
◎. 克用は自派の匡國節度使蘇文建を靜難節度使とし、寧州に入れた。
◎. 王行瑜は龍泉寨に籠もった。
◎.11月 李茂貞が来援したが撃退され、行瑜は邠州に逃亡し降伏を求めたが克用は認めなかった。
◎. 行瑜は邠州城を捨てて慶州へ走ったが部下に殺された。
◎. 克用は邠州に入り、蘇文建に継承させた。靜難節度使蘇文建同平章事。
実力もないのに思い上がった行瑜は、韓建・李茂貞にも見捨てられひとり亡んだ。
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