長慶四年[824年]
◎. 敬宗即位し柳公綽は加檢校左/右僕射。
宝暦二年[826年]
◎.11月 宰相李逢吉[字虛舟]が檢校司空同平章事兼襄州刺史充山南東道節度使臨漢監牧使。政敵裴度が任用されたため出る。麾下の張又新・李續之などを幕僚に帯同していく。
まもなく檢校司徒に進む。
◎12月 柳公綽は刑部尚書となる。
太和元年[827年]
◎.4月 有罪な門下史田伾を襄州に匿い引き渡さなかったことを弾劾され、逢吉は奪一季俸,幕僚李續之は涪州刺史、張又新は汀州刺史に左遷された。
太和二年[828年]
◎.10月 李逢吉は汴州刺史宣武軍節度使に転じ、宰相竇易直[字宗玄]が檢校左僕射同平章事充山南東道節度使臨漢監牧等使.晉陽郡公に出る。
太和四年[830年]
◎.9月 竇易直は左僕射判太常卿事となり、宰相裴度[字中立]が守司徒兼待中襄州刺史充山南東道節度臨漢監牧等使となる。牛党に出された。
太和七年[833年]
◎. 裴度は、元和に置かれた臨漢監牧使を廃して、善田四百頃に戻した。
太和八年[834年]
◎.3月 裴度は司徒兼侍中判東都尚書省事充東都留守。に転じる。
◎. 兵部尚書王起[字舉之]が檢校右僕射襄州刺史充山南東道節度使となる。濱漢塘堰を工事し治水に努める。
◎. 李訓は起の門下生の為、加銀靑光禄大夫
太和九年[835年]
◎.8月 李訓の推薦により王起は兵部尚書判戸部となる。甘露の変には坐せず。
◎.8月 戸部侍郎判戸部李翺[字習之]が檢校禮部/戸部尚書充山南東道節度使。
開成元年[836年]
◎. 山東節度使李翺 鎭に卒。諡曰文。
◎.7月 刑部尚書殷侑[字?]が檢校右/左僕射充山南東道節度使となる。
開成二年[837年]
◎.3月 山東節度使殷侑は貶?太子賓客分司。疾辭ともいう。すぐ検校右僕射忠武軍節度使となる。
◎.3月 左僕射兼判吏部尚書銓事李程[字表臣]が檢校司徒為襄州刺史山南東道節度使となる。
開成四年[839年]
◎. 山東節度使李程は卒する。七十七歳。贈太保,諡曰繆。 旧紀では東都留守になったという記述もある。
◎.8月 左僕射奇章郡公牛僧孺[字思黯]が檢校司空同平章事兼襄州刺史充山南東道節度使に。
開成五年[840年]
◎. 牛僧孺、進檢校司徒。武宗即位のため。
會昌元年[841年]
◎.7/閏9月 山東節度使牛僧孺は貶太子少師/少保/太子太師?。李徳裕が襄州水害を弾劾したため。
◎. 嶺南節度使盧鈞[字子和]が山東節度使に転じる。寛厚能政廉潔をもって知られ漢水が襄陽に水害を起こすため、築堤して防いだ。鈞は進士出身。
會昌四年[844年] [一時昭義兼任]
◎.7月 昭義劉稹の征討に際して、衆望のある山東節度使盧鈞を昭義節度招撫使として兼任させ、8月.檢校兵部尚書兼潞州大都督府長史昭義節度澤潞邢洺磁觀察等使として専任させた。
◎. 太常卿鄭肅[字乂敬]が検校右僕射山東節度使となる。肅は進士出身。
會昌五年[845年]
◎.七月 山東節度使鄭肅は、宰相李徳裕の推挽で檢校尚書右僕射同中書門下平章事として宰相となる。
大中元年[847年]
◎. 檢校工部尚書兼御史大夫忠武軍節度使盧簡辭[字子策]が檢校刑部尚書襄州刺史山南東道節度使に転じる。簡辭は進士出身、綸の子。
大中二年[848年]
◎. 盧簡辭は坐事貶衢州刺史[理由不明.坐李徳裕か?]
◎. 銀靑光禄大夫吏部尚書高元裕[字景圭]を検校吏部尚書山南東道節度管内観察處置等使使持節襄州諸軍事兼襄州刺史御史大夫渤海縣男食邑三百戸とする。元裕は積年の税の滞納分の免税を請願した。
大中六年[852年]
◎.夏 高元裕は吏部尚書となるが途次に卒する。76歳、贈尚書右僕射。
◎.6月 天平軍節度使李景譲[字後己]が檢校戸部尚書山南東道節度使襄州刺史酒泉縣男食邑三百戸となる.景讓は文官。
大中十年[856年]
◎.春/3月 山東節度使李景譲は吏部尚書に。
◎. 戸部侍郎判戸部徐商[字義聲]が正議大夫検校戸部尚書兼襄州刺史御史大夫充山南東道節度管内観察處置等使東莞縣子五百戸となった。
◎. 商は剽悍な山棚民を兵団として編成し、號捕盜將として盗を捕らえさせた。湖南・江西の兵乱に際しては派兵して鎮圧させた。
咸通元年[860年]
◎. 徐商は入朝し御史大夫となった。
◎. 兵部尚書蔣係[字?]は檢校左僕射襄州刺史山南東道節度使淮陽縣公五百戶となった。
◎. 敬宗即位し柳公綽は加檢校左/右僕射。
宝暦二年[826年]
◎.11月 宰相李逢吉[字虛舟]が檢校司空同平章事兼襄州刺史充山南東道節度使臨漢監牧使。政敵裴度が任用されたため出る。麾下の張又新・李續之などを幕僚に帯同していく。
まもなく檢校司徒に進む。
◎12月 柳公綽は刑部尚書となる。
太和元年[827年]
◎.4月 有罪な門下史田伾を襄州に匿い引き渡さなかったことを弾劾され、逢吉は奪一季俸,幕僚李續之は涪州刺史、張又新は汀州刺史に左遷された。
太和二年[828年]
◎.10月 李逢吉は汴州刺史宣武軍節度使に転じ、宰相竇易直[字宗玄]が檢校左僕射同平章事充山南東道節度使臨漢監牧等使.晉陽郡公に出る。
太和四年[830年]
◎.9月 竇易直は左僕射判太常卿事となり、宰相裴度[字中立]が守司徒兼待中襄州刺史充山南東道節度臨漢監牧等使となる。牛党に出された。
太和七年[833年]
◎. 裴度は、元和に置かれた臨漢監牧使を廃して、善田四百頃に戻した。
太和八年[834年]
◎.3月 裴度は司徒兼侍中判東都尚書省事充東都留守。に転じる。
◎. 兵部尚書王起[字舉之]が檢校右僕射襄州刺史充山南東道節度使となる。濱漢塘堰を工事し治水に努める。
◎. 李訓は起の門下生の為、加銀靑光禄大夫
太和九年[835年]
◎.8月 李訓の推薦により王起は兵部尚書判戸部となる。甘露の変には坐せず。
◎.8月 戸部侍郎判戸部李翺[字習之]が檢校禮部/戸部尚書充山南東道節度使。
開成元年[836年]
◎. 山東節度使李翺 鎭に卒。諡曰文。
◎.7月 刑部尚書殷侑[字?]が檢校右/左僕射充山南東道節度使となる。
開成二年[837年]
◎.3月 山東節度使殷侑は貶?太子賓客分司。疾辭ともいう。すぐ検校右僕射忠武軍節度使となる。
◎.3月 左僕射兼判吏部尚書銓事李程[字表臣]が檢校司徒為襄州刺史山南東道節度使となる。
開成四年[839年]
◎. 山東節度使李程は卒する。七十七歳。贈太保,諡曰繆。 旧紀では東都留守になったという記述もある。
◎.8月 左僕射奇章郡公牛僧孺[字思黯]が檢校司空同平章事兼襄州刺史充山南東道節度使に。
開成五年[840年]
◎. 牛僧孺、進檢校司徒。武宗即位のため。
會昌元年[841年]
◎.7/閏9月 山東節度使牛僧孺は貶太子少師/少保/太子太師?。李徳裕が襄州水害を弾劾したため。
◎. 嶺南節度使盧鈞[字子和]が山東節度使に転じる。寛厚能政廉潔をもって知られ漢水が襄陽に水害を起こすため、築堤して防いだ。鈞は進士出身。
會昌四年[844年] [一時昭義兼任]
◎.7月 昭義劉稹の征討に際して、衆望のある山東節度使盧鈞を昭義節度招撫使として兼任させ、8月.檢校兵部尚書兼潞州大都督府長史昭義節度澤潞邢洺磁觀察等使として専任させた。
◎. 太常卿鄭肅[字乂敬]が検校右僕射山東節度使となる。肅は進士出身。
會昌五年[845年]
◎.七月 山東節度使鄭肅は、宰相李徳裕の推挽で檢校尚書右僕射同中書門下平章事として宰相となる。
大中元年[847年]
◎. 檢校工部尚書兼御史大夫忠武軍節度使盧簡辭[字子策]が檢校刑部尚書襄州刺史山南東道節度使に転じる。簡辭は進士出身、綸の子。
大中二年[848年]
◎. 盧簡辭は坐事貶衢州刺史[理由不明.坐李徳裕か?]
◎. 銀靑光禄大夫吏部尚書高元裕[字景圭]を検校吏部尚書山南東道節度管内観察處置等使使持節襄州諸軍事兼襄州刺史御史大夫渤海縣男食邑三百戸とする。元裕は積年の税の滞納分の免税を請願した。
大中六年[852年]
◎.夏 高元裕は吏部尚書となるが途次に卒する。76歳、贈尚書右僕射。
◎.6月 天平軍節度使李景譲[字後己]が檢校戸部尚書山南東道節度使襄州刺史酒泉縣男食邑三百戸となる.景讓は文官。
大中十年[856年]
◎.春/3月 山東節度使李景譲は吏部尚書に。
◎. 戸部侍郎判戸部徐商[字義聲]が正議大夫検校戸部尚書兼襄州刺史御史大夫充山南東道節度管内観察處置等使東莞縣子五百戸となった。
◎. 商は剽悍な山棚民を兵団として編成し、號捕盜將として盗を捕らえさせた。湖南・江西の兵乱に際しては派兵して鎮圧させた。
咸通元年[860年]
◎. 徐商は入朝し御史大夫となった。
◎. 兵部尚書蔣係[字?]は檢校左僕射襄州刺史山南東道節度使淮陽縣公五百戶となった。