建中三年[782年]
◎.11月 検校左常侍兼御史大夫山南西道節度使賈耽が檢校工部尚書兼襄州刺史兼御史大夫山南東道節度使となり、前山南東道節度使李承は潭州刺史湖南觀察使に転じた。耽[字敦詩]は明経出身の文官だが兵法にもつうじていた。崇義の反時は進出して均州を陥す功績もあった。
建中四年[783年]
◎.正月 希烈將封有麟が鄧州を占拠し、貢獻、商旅が皆不通となった。上津山路を開き迂回することにした。
◎.4月 唐朝軍は淮西李希烈に敗北が続き、北からは李勉・哥舒曜、南からは荊南節度使張伯儀が淮西應援招討使、山南東道節度使賈耽・江西節度使曹王皋が副となり征討を進めることになった。しかし3月に既に伯儀は安州で大敗しており意味はなかった。
◎.8月 希烈將曹季昌が隨州を以って降ったが、すぐ殺された。
興元元年[784年]
◎.正月 山南東道行軍司馬樊澤を兼御史大夫山東節度使とし、前山南東道節度使南皮賈耽は4月に工部尚書となった。澤は耽の使いとして德宗の下に行き節度使を奪ったわけだが、耽は事を荒立てずに即日離鎭したのだった。澤[字安時]は幕僚として兵法に通じていた。諫議大夫元帥行軍右司馬を歴任していた。
貞元元年[785年]
◎.3月 李希烈は鄧州を陥し、唐鄧隋招討使黃金岳を殺した。
◎. 唐鄧二州が東都留守都防禦使へ移管した。実質的な意味はない。
貞元二年[786年]
◎.2月 李希烈將杜文朝・張嘉瑜が襄州を攻めたが、山南東道節度使樊澤はこれを破って捕らえた。
◎.4月 淮西將陳仙奇が希烈を殺した。
◎.5月 淮西將李惠登が隋州を以って降った。
◎.6月 淮西將吳少誠が其節度使陳仙奇を殺して自立した。
◎.7月 淮西將薛翼が唐州を以って降った。
貞元三年[787年]
◎.閏5月 李希烈は誅されたが、後継の吳少誠も反唐朝姿勢であったため、重要な山東節度には、名将で皇族の檢校戸部尚書荊南節度使嗣曹王皋[字子蘭]を任じ,襄鄧復郢安隨唐七州を隸させた。山南東道節度使樊澤は代わって江陵尹荊南節度使となった。皐は太宗の子曹王明の末。李希烈の乱に南方戦線を支えて圧迫し、唐朝の財源である江淮への進出を許さなかった。唐鄧二州は東都からの復領である。
貞元八年[792年]
◎.3月 檢校戸部尚書山南東道節度使曹成王皋が卒した。節度判官李實が知留後事となったが、刻薄吝嗇で人望がなく、將楊清潭が乱し實を逐った。乱兵は人望があった曹王家は襲わなかった。翌日、都將徐誠が入城し、清潭等六人を誅した。實は京師に戻ったが罰せられず司農少卿となった。實は皇族で道王元慶の玄孫。唐朝は前山東節度使であった荊南節度使樊澤を戻した慰撫した。
貞元十四年[798年]
◎.9月 山南東道節度使檢校尚書右僕射襄州刺史樊澤が卒し、後任に陝虢觀察使于頔[字允元]を山南東道節度使となった。頔は蔭位で立身し、剛腕で治績を上げてきた。
貞元十五年[799年]
◎.3月 淮西呉少誠軍が唐州を襲い、監軍邵國朝、鎮遏使張嘉瑜を殺し、百姓千餘人を拉致した。
◎.10月 于頔は安黄節度使伊慎・知壽州事王宗や忠武上官兌、宣武韓弘とともに淮西呉少誠を討つことになった。
◎.11月 于頔は蔡州の呉房・朗山縣を陥したと奏上した。
◎.12月 唐朝軍は雑多に進軍し小溵水で淮西軍に敗れ潰走した。
貞元十六年[800年]
◎.2月 夏綏節度使韓全義が蔡州四面行營招討使となり、十七道兵は全義の指揮を受けることになったが敗北が続いた。当然山東も麾下である。
◎.5月 韓全義は不様に敗走し、山南東道節度使于頔は情勢をみて、呉少誠を討つためとして、戰士を募り、軍備を増強し、貨財を聚斂して上納しなかった。そして自立の傾向を示した。姑息な德宗はどうしようもなく専横にさせていた。
◎.11月 検校左常侍兼御史大夫山南西道節度使賈耽が檢校工部尚書兼襄州刺史兼御史大夫山南東道節度使となり、前山南東道節度使李承は潭州刺史湖南觀察使に転じた。耽[字敦詩]は明経出身の文官だが兵法にもつうじていた。崇義の反時は進出して均州を陥す功績もあった。
建中四年[783年]
◎.正月 希烈將封有麟が鄧州を占拠し、貢獻、商旅が皆不通となった。上津山路を開き迂回することにした。
◎.4月 唐朝軍は淮西李希烈に敗北が続き、北からは李勉・哥舒曜、南からは荊南節度使張伯儀が淮西應援招討使、山南東道節度使賈耽・江西節度使曹王皋が副となり征討を進めることになった。しかし3月に既に伯儀は安州で大敗しており意味はなかった。
◎.8月 希烈將曹季昌が隨州を以って降ったが、すぐ殺された。
興元元年[784年]
◎.正月 山南東道行軍司馬樊澤を兼御史大夫山東節度使とし、前山南東道節度使南皮賈耽は4月に工部尚書となった。澤は耽の使いとして德宗の下に行き節度使を奪ったわけだが、耽は事を荒立てずに即日離鎭したのだった。澤[字安時]は幕僚として兵法に通じていた。諫議大夫元帥行軍右司馬を歴任していた。
貞元元年[785年]
◎.3月 李希烈は鄧州を陥し、唐鄧隋招討使黃金岳を殺した。
◎. 唐鄧二州が東都留守都防禦使へ移管した。実質的な意味はない。
貞元二年[786年]
◎.2月 李希烈將杜文朝・張嘉瑜が襄州を攻めたが、山南東道節度使樊澤はこれを破って捕らえた。
◎.4月 淮西將陳仙奇が希烈を殺した。
◎.5月 淮西將李惠登が隋州を以って降った。
◎.6月 淮西將吳少誠が其節度使陳仙奇を殺して自立した。
◎.7月 淮西將薛翼が唐州を以って降った。
貞元三年[787年]
◎.閏5月 李希烈は誅されたが、後継の吳少誠も反唐朝姿勢であったため、重要な山東節度には、名将で皇族の檢校戸部尚書荊南節度使嗣曹王皋[字子蘭]を任じ,襄鄧復郢安隨唐七州を隸させた。山南東道節度使樊澤は代わって江陵尹荊南節度使となった。皐は太宗の子曹王明の末。李希烈の乱に南方戦線を支えて圧迫し、唐朝の財源である江淮への進出を許さなかった。唐鄧二州は東都からの復領である。
貞元八年[792年]
◎.3月 檢校戸部尚書山南東道節度使曹成王皋が卒した。節度判官李實が知留後事となったが、刻薄吝嗇で人望がなく、將楊清潭が乱し實を逐った。乱兵は人望があった曹王家は襲わなかった。翌日、都將徐誠が入城し、清潭等六人を誅した。實は京師に戻ったが罰せられず司農少卿となった。實は皇族で道王元慶の玄孫。唐朝は前山東節度使であった荊南節度使樊澤を戻した慰撫した。
貞元十四年[798年]
◎.9月 山南東道節度使檢校尚書右僕射襄州刺史樊澤が卒し、後任に陝虢觀察使于頔[字允元]を山南東道節度使となった。頔は蔭位で立身し、剛腕で治績を上げてきた。
貞元十五年[799年]
◎.3月 淮西呉少誠軍が唐州を襲い、監軍邵國朝、鎮遏使張嘉瑜を殺し、百姓千餘人を拉致した。
◎.10月 于頔は安黄節度使伊慎・知壽州事王宗や忠武上官兌、宣武韓弘とともに淮西呉少誠を討つことになった。
◎.11月 于頔は蔡州の呉房・朗山縣を陥したと奏上した。
◎.12月 唐朝軍は雑多に進軍し小溵水で淮西軍に敗れ潰走した。
貞元十六年[800年]
◎.2月 夏綏節度使韓全義が蔡州四面行營招討使となり、十七道兵は全義の指揮を受けることになったが敗北が続いた。当然山東も麾下である。
◎.5月 韓全義は不様に敗走し、山南東道節度使于頔は情勢をみて、呉少誠を討つためとして、戰士を募り、軍備を増強し、貨財を聚斂して上納しなかった。そして自立の傾向を示した。姑息な德宗はどうしようもなく専横にさせていた。