唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

邠寧節度使史5

2020-10-19 10:00:48 | Weblog
元和四年[806]
◎.9月 邠寧節度使檢校司空同平章事高崇文が鎭に卒した。
◎.10月 右羽林統軍閻巨源為邠州刺史邠寧慶節度使。巨源は范希朝下の軍人で振武節度も経験している。

元和九年[811]
◎.11月 左金吾大將軍郭釗が檢校工部尚書邠州刺史充邠寧節度使となる。釗は憲宗妃の兄、皇太子の義父。
◎.12月 邠寧節度使閻巨源は卒する。

元和十三年[815]
◎.2月 程權/執恭は滄景二州を唐朝に返上して帰朝し、4月 華州刺史鄭權が滄景に赴任。
◎.6月 程權は検校右僕射横海軍節度使より検校司空邠州刺史邠寧節度使に遷された。

元和十四年[816]
◎.11月 邠寧節度使程權卒、贈司徒。
◎.5月 憲宗は対吐蕃攻勢を企画し、検校司空忠武軍節度使武威郡公食邑二千戸李光顏を邠州刺史邠寧慶節度使、精鋭である忠武軍六千人を率いて赴鎮させた。

元和十五年[817]
◎.6月 加邠寧慶節度使李光顏特進,以城鹽州之功也。
◎.9月 光顔入朝。加同平章事。
◎.10月 吐蕃が涇原に侵攻してきた。右軍中尉梁守謙が神策軍を率いて対峙していたが、邠寧軍も支援を要請された。しかし將士は手厚い給与を受ける神策軍を妬み出動を渋った。光顔は大義を説き納得させた。

長慶元年[818]
◎.3月 檢校司空平章事邠寧節度使李光顏は鳳翔尹充鳳翔隴右節度使平章事へ。右衛/左武衛大將軍高霞寓檢校工部尚書邠州刺史充邠寧節度使。霞寓は神策軍出身で、諌官達はかって淮西で大敗した前歴を糾弾したが、宦官と結託していたため任命された。

長慶三年[820]
◎. 高霞寓は加檢校右僕射。

長慶四年[821]
◎. 高霞寓は加検校司空、また加檢校司徒。兵士より立身し、無学文盲で、高慢であったが皇帝や宦官にしっかり贈賄し高位を得ていた。

寶暦二年[823]
◎.夏 邠寧節度使高霞寓は疽發首で辞任し、檢校司徒右金吾衛大將軍に任ぜられたが途次卒した。
◎.4月 檢校左僕射右金吾衛大將軍襲密國公食邑三千戶高承簡が邠寧慶節度使となった。承簡は崇文の子で、宋州刺史として李介の軍乱の平定に貢献して兗海・義成節度を経て右金吾大将軍となっていた。

大和元年[824]
◎.8月 羌虜の辺寇に備えて寧州に屯していた邠寧節度使高承簡は、疾により辭して歸途に卒した。[贈司空]
◎. 文官の刑部尚書柳公綽[字起之]が檢校左僕射充邠寧節度使となった。邠寧は軍人の任地であったが、前任の山東節度使等で極めて能政で、軍政への知見もあった公綽が特任された。公綽は神策軍直轄の諸鎮が、邠寧領域内の要地にあるにも係わらず、邠寧節度使の指揮をうけない不合理を是正させた。

太和二年[825]
◎.6月 軍人の朔方靈武節度使李進誠が邠寧節度使となった。改革を遂行した前邠寧節度使柳公綽は檢校左僕射兼刑部尚書に戻った。

大和三年[826]
◎.5月 軍人左金吾衛大將軍劉遵古が邠寧節度使となった。李進誠は?
◎.12月 太子少師李聽[晟の子]が邠寧節度使となる。聽は魏博何進縚自立時の失態[赴任できず敗走]により左遷されていたが、宦官に贈賄して再起用されたわけである。

太和四年[827]
◎.正月 邠寧節度使劉遵古は東川節度使となった。三年末に西川杜元潁の失政により南詔蠻が侵攻し、東川郭釗が西川へ移った後である。東川にも軍人を派遣して動揺を抑えたと考えられる。

太和六年[829]
◎.3月 邠寧節度使李聽は武寧軍節度徐泗濠觀察等使となった。前任の王智興は自立して武寧軍節度使になり、李同捷討伐などで大きな功績を上げたが、武寧軍内の統制に苦しみ転任を願い出て忠武軍節度へ移った。武寧軍内は聴の赴任を喜ばず[聴の兄愿や愬もかって武寧節度使であったので事情には明るい]、先遣の吏を殺害するなどの動きがあり、懼れた聴は辞退し、太子太保の閑職に遷された。結局文官の前忠武軍節度高瑀が武寧軍へ赴任することになったが、やはり統制できなかった。
◎.3月 軍人金吾衛大將軍孟友亮が邠寧節度使となった。

太和七年[830]
◎.6月 軍人右神策大將軍李用為邠寧節度使。孟友亮は不明。用の経歴も不明。

太和九年[832]
◎.11月 李訓の党派である文官大理卿郭行餘を邠寧節度使とした。これは宦官討滅時の兵力動員と神策軍の抑えである。他に鄭注が鳳翔隴右節度使となって京師周辺の軍を抑える予定であった。ところが訓が功を焦って準備不足の間に甘露の変を引き起こし、宦官の神策軍の逆襲をうけて並び殺された。軍を動員する余裕もなかった。前使李用はすぐ再任された。