開成二年[837]
◎.3月 邠寧節度使李用は卒した。軍人金吾大將軍李直臣が邠寧節度使となった。直臣の経歴は不明。
開成三年[838]
◎.7月 右金吾衛大將軍史孝章[字得仁]が邠寧節度使となった。直臣は不明。孝章は魏博節度使史憲誠の子で、唐朝に忠実で、動揺する父を唐朝に繋ぎ止めていた。憲誠が魏博を返上しようとした時、分割された相衛澶三州節度使に任用される予定であったが、何進滔の軍乱により憲誠が殺されたため実現しなかった。唐朝は忠誠を評価して高官として任用していた。
◎.10月 邠寧節度使史孝章が39歳で卒した[贈右僕射]。
◎.10月 軍人左金吾將軍郭旼が邠寧慶節度使となる。旼は子儀の侄、郭太后の叔父。
開成四年[839]
◎.5月 邠寧節度使郭旼が卒する。
◎.6月 軍人長武城使苻澈為邠寧節度。経歴不明だが、能政であったようだ。
開成五年[840]
◎. 邠寧節度使苻澈は河東節度使太原尹北都留守檢校兵部尚書禦史大夫琅琊郡開國侯食邑一千戶襲實封一百戶となり、義成節度使裴宏泰が邠寧節度使となった。宏泰は経歴不明だが諸鎭を歴任した。
◎. 是年もしくは會昌1 裴宏泰は鳳翔隴右節度使に移ったようである。
◎. 是年もしくは會昌1 鹽州刺史防禦使王宰/晏宰が銀青光禄大夫検校工部尚書兼御史大夫充邠寧節度観察處置等使上柱國太原郡開國公食邑三千戸となった。宰は智興の子である。名門の子らしく將士に厳酷であったと言われている。
會昌三年[843]
◎.4月 邠寧節度使王宰は検校工部尚書御史大夫兼許州刺史忠武軍節度使に転じた。
◎.11月 黨項が邠寧に入寇した。兗王岐が靈夏等六道元帥兼安撫黨項大使となって黨項を安撫した。黨項[タングート.後の西夏]は吐蕃に逐われて唐領域内の朔方・夏綏地域に居住していた。回紇が衰退してその圧力が無くなったことと、唐の多くの辺帥が腐敗[宦官に贈賄して就任し、収斂して蓄財する]して収奪につとめたため乱するようになった。
◎. 検校右常侍銀靑光禄大夫右金吾大将軍右街使渤海郡開國公食邑二千戸高承恭が.検校工部尚書御史大夫充邠寧節度使となった。承恭は崇文の族子?。
會昌五年[845]
◎. 黨項の侵盜はやまず、邠寧鹽州の支城堡を陥した。唐朝はこれを討つことにした。
會昌六年[846]
◎.2月 邠寧節度使高承恭は充西南面討黨項使となった。
◎. 振武節度使?李業/安業が邠寧節度使となった。
大中元年[847]
◎. 邠寧節度使李業は夏綏節度に転じたか?。前任不明の張君緒が邠寧節度使となった。君緒は経歴不明。會昌6年末のことかもしれない[李業の赴任には錯誤がある]。
大中三年[849]
◎.正/2月 吐蕃領であった秦・原・安樂三州及石門等七關之兵民が歸國し、靈武節度使朱叔明・邠寧節度使張君緒は寧州へ出兵して受け入れた。君緒は是年までらしいが後任は不明。
◎.6/7月 張君緒は蕭關を回復したと報告した。蕭關は武州とされた。
◎.8月 領域回復により涇原・靈武・鳳翔・邠寧に賞賜があった。
大中四年[850]
◎. 李知譲 是年、大中大夫使持節邠州諸軍事守邠州刺史兵馬留後が御史中丞を加えられている。5年まで在任したらしい。邠寧節度使は不明。
大中五年[851]
◎.3/5月 黨項征討がいっこうに進まないため、宣宗皇帝は宰相守司空門下侍郎平章事太原郡開國伯食邑一千戸白敏中を檢校司徒同平章事邠州刺史充邠寧節度觀察東面招討黨項等使/充招討黨項行營都統制置等使南北兩路供軍使兼邠寧節度使となった。淮西裴度以来の宰相としての出鎭であり、前例から幕僚を中央官僚のうちから選任することを許された。しかし度の時と違い、危機感はない二度目となると茶番であった。当時、敏中は翰林院の実力者鄭顥の恨みを受け、事ごとに誹謗されていた。
◎. 左諫議大夫孫景商が左庶子充邠寧行軍司馬、知制誥蔣伸が右庶子充節度副使となった。
◎.8月 敏中は南山黨項が歸順を請うたと上奏した。討伐ができたわけではなく、慰撫して形式的に降伏させただけである。
◎. 軍人陳君が邠州刺史邠州節度塞門行営使として軍事ほ執行したようだ。
◎.10月 名目上とはいえ征討が完了したので敏中の都統を免じた。正任の宰相には復帰させず司空平章事充邠寧節度使とした。
大中六年[852]
◎.4月 白敏中は特進檢校司徒同平章事成都尹劍南西川節度副大使知節度事管内觀察處置統押近界諸蠻及西山八國雲南安撫等使太原郡開國公食邑二千戸へ転じた。完全に使相待遇となった。
◎.6月 朝散大夫刑部侍郎平陰縣開國男三百戸畢諴が朝散大夫検校工部尚書使持節寧州諸軍事兼寧州刺史御史大夫邠寧鹽慶武等州節度管内営田観察處置兼充慶州南路救接鹽州及當道沿途鎭寨粮料等使となった。黨項征討はまだ未完であったわけである。諴は文官であるが邊事に経略があり宣宗に抜擢された。治所は寧州である。
◎.10月 さすがに経略をもつ邠寧節度使畢諴は黨項を宣諭し帰順させた。
◎.3月 邠寧節度使李用は卒した。軍人金吾大將軍李直臣が邠寧節度使となった。直臣の経歴は不明。
開成三年[838]
◎.7月 右金吾衛大將軍史孝章[字得仁]が邠寧節度使となった。直臣は不明。孝章は魏博節度使史憲誠の子で、唐朝に忠実で、動揺する父を唐朝に繋ぎ止めていた。憲誠が魏博を返上しようとした時、分割された相衛澶三州節度使に任用される予定であったが、何進滔の軍乱により憲誠が殺されたため実現しなかった。唐朝は忠誠を評価して高官として任用していた。
◎.10月 邠寧節度使史孝章が39歳で卒した[贈右僕射]。
◎.10月 軍人左金吾將軍郭旼が邠寧慶節度使となる。旼は子儀の侄、郭太后の叔父。
開成四年[839]
◎.5月 邠寧節度使郭旼が卒する。
◎.6月 軍人長武城使苻澈為邠寧節度。経歴不明だが、能政であったようだ。
開成五年[840]
◎. 邠寧節度使苻澈は河東節度使太原尹北都留守檢校兵部尚書禦史大夫琅琊郡開國侯食邑一千戶襲實封一百戶となり、義成節度使裴宏泰が邠寧節度使となった。宏泰は経歴不明だが諸鎭を歴任した。
◎. 是年もしくは會昌1 裴宏泰は鳳翔隴右節度使に移ったようである。
◎. 是年もしくは會昌1 鹽州刺史防禦使王宰/晏宰が銀青光禄大夫検校工部尚書兼御史大夫充邠寧節度観察處置等使上柱國太原郡開國公食邑三千戸となった。宰は智興の子である。名門の子らしく將士に厳酷であったと言われている。
會昌三年[843]
◎.4月 邠寧節度使王宰は検校工部尚書御史大夫兼許州刺史忠武軍節度使に転じた。
◎.11月 黨項が邠寧に入寇した。兗王岐が靈夏等六道元帥兼安撫黨項大使となって黨項を安撫した。黨項[タングート.後の西夏]は吐蕃に逐われて唐領域内の朔方・夏綏地域に居住していた。回紇が衰退してその圧力が無くなったことと、唐の多くの辺帥が腐敗[宦官に贈賄して就任し、収斂して蓄財する]して収奪につとめたため乱するようになった。
◎. 検校右常侍銀靑光禄大夫右金吾大将軍右街使渤海郡開國公食邑二千戸高承恭が.検校工部尚書御史大夫充邠寧節度使となった。承恭は崇文の族子?。
會昌五年[845]
◎. 黨項の侵盜はやまず、邠寧鹽州の支城堡を陥した。唐朝はこれを討つことにした。
會昌六年[846]
◎.2月 邠寧節度使高承恭は充西南面討黨項使となった。
◎. 振武節度使?李業/安業が邠寧節度使となった。
大中元年[847]
◎. 邠寧節度使李業は夏綏節度に転じたか?。前任不明の張君緒が邠寧節度使となった。君緒は経歴不明。會昌6年末のことかもしれない[李業の赴任には錯誤がある]。
大中三年[849]
◎.正/2月 吐蕃領であった秦・原・安樂三州及石門等七關之兵民が歸國し、靈武節度使朱叔明・邠寧節度使張君緒は寧州へ出兵して受け入れた。君緒は是年までらしいが後任は不明。
◎.6/7月 張君緒は蕭關を回復したと報告した。蕭關は武州とされた。
◎.8月 領域回復により涇原・靈武・鳳翔・邠寧に賞賜があった。
大中四年[850]
◎. 李知譲 是年、大中大夫使持節邠州諸軍事守邠州刺史兵馬留後が御史中丞を加えられている。5年まで在任したらしい。邠寧節度使は不明。
大中五年[851]
◎.3/5月 黨項征討がいっこうに進まないため、宣宗皇帝は宰相守司空門下侍郎平章事太原郡開國伯食邑一千戸白敏中を檢校司徒同平章事邠州刺史充邠寧節度觀察東面招討黨項等使/充招討黨項行營都統制置等使南北兩路供軍使兼邠寧節度使となった。淮西裴度以来の宰相としての出鎭であり、前例から幕僚を中央官僚のうちから選任することを許された。しかし度の時と違い、危機感はない二度目となると茶番であった。当時、敏中は翰林院の実力者鄭顥の恨みを受け、事ごとに誹謗されていた。
◎. 左諫議大夫孫景商が左庶子充邠寧行軍司馬、知制誥蔣伸が右庶子充節度副使となった。
◎.8月 敏中は南山黨項が歸順を請うたと上奏した。討伐ができたわけではなく、慰撫して形式的に降伏させただけである。
◎. 軍人陳君が邠州刺史邠州節度塞門行営使として軍事ほ執行したようだ。
◎.10月 名目上とはいえ征討が完了したので敏中の都統を免じた。正任の宰相には復帰させず司空平章事充邠寧節度使とした。
大中六年[852]
◎.4月 白敏中は特進檢校司徒同平章事成都尹劍南西川節度副大使知節度事管内觀察處置統押近界諸蠻及西山八國雲南安撫等使太原郡開國公食邑二千戸へ転じた。完全に使相待遇となった。
◎.6月 朝散大夫刑部侍郎平陰縣開國男三百戸畢諴が朝散大夫検校工部尚書使持節寧州諸軍事兼寧州刺史御史大夫邠寧鹽慶武等州節度管内営田観察處置兼充慶州南路救接鹽州及當道沿途鎭寨粮料等使となった。黨項征討はまだ未完であったわけである。諴は文官であるが邊事に経略があり宣宗に抜擢された。治所は寧州である。
◎.10月 さすがに経略をもつ邠寧節度使畢諴は黨項を宣諭し帰順させた。