太宗[世民]は正史においては理想的な皇帝とされているが、実体は兄弟殺しで簒奪者であり、無意味な高句麗戦役を起こして多くの犠牲者をだし、きまぐれに臣下を左遷誅殺するなど、「第二の煬帝」とも言える人物であったが、周囲の環境の好転などで亡国に至らず、自分を賞賛する記録を残させて名君を装った。
李世民は唐帝国を開いた高祖[李淵]の次男。隋帝国に対する太原での反乱から建国までの軍事行動に参加し一応の貢献をした。
父の反乱を促したとか、作戦提案で大きな成果を上げたとかはヨイショ記事で疑わしい。
開國後は秦王となり、高祖や皇太子となった兄建成の代理として各戦線の旗頭として活躍した。
高祖は22人の子供がいるが、獨孤皇后の生んだ建成.世民.元吉[齊王]だけが軍事行動可能の年齢で、あとは幼かった。
武德元年の対薛擧戦では敗北[責任は劉文靜がとらされた。一応病気と言うことで]
その後、擧が卒し、子の仁杲戦には勝利し名誉回復をした[京師西方の敵を滅ぼす]
武德三年、太原を脅かした対劉武周戦に勝利した。
武德四年 一方の雄であった竇建徳を大破し、東都王世充を降すという大功績をあげる。
[帯びた官職]
太尉・尚書令 最高官 のちに中書令も兼ねる
陝東道・益州道・江州道大行臺尚書令 山東・劍南・江南の武力を握る
領左右十二衞大将軍 中央軍を掌握
天策上將 軍人の最高位
これでは絶対独裁者であり、皇太子・齊王の嫉視を受けるのは当然である。
匹敵するとすれば 代宗時の郭子儀か、簒奪した朱全忠であるが、親王であるだけたちが悪い。
その後の対劉黒闥・輔公祐戦闘では、高祖はあまりに功績を上げすぎた世民を警戒し、太子建成や趙郡王孝恭を起用して征討にあたらせた。
本来は仲の良かった三兄弟だが、それぞれの側近団もできてお互いに対立し合う関係になった、太子建成と功績が劣る齊王元吉は連携し、世民と対峙することになった。
高祖は、世民を優遇しすぎたことについて憂慮したが、優柔不断でずるずると解決を延ばしている間に、対立の深刻さは増していった。解決策としては建成を廃位するか、世民を殺すか、もしくは両者を殺すかでしかなかったと思うが、高祖にはできなかった。
正史で書かれているのは太宗即位後のヨイショ記事だが、それでも太子建成の人格や統率力に問題はなく、そのままであれば次代は建成のものだった。正史は建成が蕃族を騙して虐殺したという記事を大きく載せているが、世民が降伏した夏県民を皆殺しにしたという記載は小さい。
武德元年六月
唐帝国が安定化し、形勢が悪化することを憂慮した世民集団は、建成等が陰謀を企てていると誣告し、その事情説明のために玄武門から入朝する建成・元吉を襲撃し殺害した。
本来建成は皇太子であり、陰謀を企てるとすれば世民のほうである。この場合も門番常何を買収して逃亡できなくしているのも世民側である。
そして建成・元吉の十数子を全て殺害した。
そして勇猛な軍人尉遅敬德を高祖のもとに派遣し恫喝した。やむをえず高祖は世民の立太子を認めるしかなかった。
李世民は唐帝国を開いた高祖[李淵]の次男。隋帝国に対する太原での反乱から建国までの軍事行動に参加し一応の貢献をした。
父の反乱を促したとか、作戦提案で大きな成果を上げたとかはヨイショ記事で疑わしい。
開國後は秦王となり、高祖や皇太子となった兄建成の代理として各戦線の旗頭として活躍した。
高祖は22人の子供がいるが、獨孤皇后の生んだ建成.世民.元吉[齊王]だけが軍事行動可能の年齢で、あとは幼かった。
武德元年の対薛擧戦では敗北[責任は劉文靜がとらされた。一応病気と言うことで]
その後、擧が卒し、子の仁杲戦には勝利し名誉回復をした[京師西方の敵を滅ぼす]
武德三年、太原を脅かした対劉武周戦に勝利した。
武德四年 一方の雄であった竇建徳を大破し、東都王世充を降すという大功績をあげる。
[帯びた官職]
太尉・尚書令 最高官 のちに中書令も兼ねる
陝東道・益州道・江州道大行臺尚書令 山東・劍南・江南の武力を握る
領左右十二衞大将軍 中央軍を掌握
天策上將 軍人の最高位
これでは絶対独裁者であり、皇太子・齊王の嫉視を受けるのは当然である。
匹敵するとすれば 代宗時の郭子儀か、簒奪した朱全忠であるが、親王であるだけたちが悪い。
その後の対劉黒闥・輔公祐戦闘では、高祖はあまりに功績を上げすぎた世民を警戒し、太子建成や趙郡王孝恭を起用して征討にあたらせた。
本来は仲の良かった三兄弟だが、それぞれの側近団もできてお互いに対立し合う関係になった、太子建成と功績が劣る齊王元吉は連携し、世民と対峙することになった。
高祖は、世民を優遇しすぎたことについて憂慮したが、優柔不断でずるずると解決を延ばしている間に、対立の深刻さは増していった。解決策としては建成を廃位するか、世民を殺すか、もしくは両者を殺すかでしかなかったと思うが、高祖にはできなかった。
正史で書かれているのは太宗即位後のヨイショ記事だが、それでも太子建成の人格や統率力に問題はなく、そのままであれば次代は建成のものだった。正史は建成が蕃族を騙して虐殺したという記事を大きく載せているが、世民が降伏した夏県民を皆殺しにしたという記載は小さい。
武德元年六月
唐帝国が安定化し、形勢が悪化することを憂慮した世民集団は、建成等が陰謀を企てていると誣告し、その事情説明のために玄武門から入朝する建成・元吉を襲撃し殺害した。
本来建成は皇太子であり、陰謀を企てるとすれば世民のほうである。この場合も門番常何を買収して逃亡できなくしているのも世民側である。
そして建成・元吉の十数子を全て殺害した。
そして勇猛な軍人尉遅敬德を高祖のもとに派遣し恫喝した。やむをえず高祖は世民の立太子を認めるしかなかった。
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