正月乙巳、宰相杜黄裳が同平章事河中晉絳慈隰節度使となった。
有能な黄裳は劉闢討伐を主唱し功績を上げたが、主導権を握りたくなった憲宗配下の李吉甫や
武元衡と合わなくなり、早期に身をひいた。宰相が辞めて出鎭する場合、同平章事がつく(使相
という)場合は左遷ではないという慣例になっている。
正月己酉,戸部侍郎武元衡と翰林學士李吉甫が代わって宰相となった。
本格的な憲宗政治の開始である。武元衡は執誼から排除され、吉甫は德宗時は長期間任用されず
僻地に置かれていた。
八月、幽州劉濟、成德王士真、易定張茂昭の河北の方鎭が私闘し、互いに告発しあった。
唐朝はその間隙をつき、主導権をとろうとしていった。
九月、浙西節度使李錡が入朝を求め、意に反して許可されると反した。
錡は德宗時代は富裕な浙西に圧政をしき、激しい収奪をしては、一部を皇帝に直接上納するなど
して放任されていた。ところが憲宗になり、劉闢・楊惠琳が誅されるのを見て怖れて形式的に入
朝を求めて上意を窺った。藩鎭強硬派武元衡達は錡を罷し、左僕射という名誉職に転じさせよう
とした。錡は激怒して牙軍を指嗾して乱を起こし、支配地域の蘇、杭、湖、睦州を制圧しようと
したが唐朝は予期しており戦果はすくなかった。
九月乙丑,李錡の官爵を削り、淮南節度使王鍔を統諸道兵為招討處置使として,宣武、義寧、武昌、
宣歙、江西,浙東軍を率いて討伐させた。
王鍔は軍人出身であり、李錡の反乱を予期して配置されていた。
十月癸酉,李錡將張子良等は反して、錡を捕らえた。十一月誅殺された。
浙西将張子良、李奉仙、田少卿等は、宣州攻撃を命ぜられたが、すでに唐朝が反乱を予期して対応
を取っていることを察し、錡を見捨てて帰朝することにした。子良達は厚く賞された。
有能な黄裳は劉闢討伐を主唱し功績を上げたが、主導権を握りたくなった憲宗配下の李吉甫や
武元衡と合わなくなり、早期に身をひいた。宰相が辞めて出鎭する場合、同平章事がつく(使相
という)場合は左遷ではないという慣例になっている。
正月己酉,戸部侍郎武元衡と翰林學士李吉甫が代わって宰相となった。
本格的な憲宗政治の開始である。武元衡は執誼から排除され、吉甫は德宗時は長期間任用されず
僻地に置かれていた。
八月、幽州劉濟、成德王士真、易定張茂昭の河北の方鎭が私闘し、互いに告発しあった。
唐朝はその間隙をつき、主導権をとろうとしていった。
九月、浙西節度使李錡が入朝を求め、意に反して許可されると反した。
錡は德宗時代は富裕な浙西に圧政をしき、激しい収奪をしては、一部を皇帝に直接上納するなど
して放任されていた。ところが憲宗になり、劉闢・楊惠琳が誅されるのを見て怖れて形式的に入
朝を求めて上意を窺った。藩鎭強硬派武元衡達は錡を罷し、左僕射という名誉職に転じさせよう
とした。錡は激怒して牙軍を指嗾して乱を起こし、支配地域の蘇、杭、湖、睦州を制圧しようと
したが唐朝は予期しており戦果はすくなかった。
九月乙丑,李錡の官爵を削り、淮南節度使王鍔を統諸道兵為招討處置使として,宣武、義寧、武昌、
宣歙、江西,浙東軍を率いて討伐させた。
王鍔は軍人出身であり、李錡の反乱を予期して配置されていた。
十月癸酉,李錡將張子良等は反して、錡を捕らえた。十一月誅殺された。
浙西将張子良、李奉仙、田少卿等は、宣州攻撃を命ぜられたが、すでに唐朝が反乱を予期して対応
を取っていることを察し、錡を見捨てて帰朝することにした。子良達は厚く賞された。
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