唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

寶應二年/廣徳元年 西暦763年 1

2020-04-03 10:06:43 | Weblog
正月癸未,劉晏が宰相となる。
有能な財政家の晏を宰相とした。

正月甲申,史朝義自殺,將李懷仙・田承嗣以魏州降。
敗戦が続き、次々と部下が唐朝に降り、河北に追いつめられた朝義は、頼りとする承嗣に裏切られ、本拠地の幽州に奔った。しかし幽州を守る懷仙にも裏切られ自殺した。
安史の大乱が一応集結したわけである。

正月壬寅,山陵使、山南東道節度使來瑱有罪,伏誅。
代宗と宦官程元振は瑱を優遇するとみせかけて、讒言を加えて殺害した。これを見た諸将は唐朝を信用しなくなった。

閏正月癸亥,史朝義將薛嵩を相衛邢洺貝磁節度使,田承嗣を魏博德滄瀛五州都防御使,李懷仙を幽州盧龍節度使。
副元帥僕固懷恩は徹底した討伐を行わず、河北を史朝義の旧将達に分与して早期に安定化しようとした。これは懷恩が來瑱の処遇をみて代宗・程元振を信用せず、朝義旧将を統御して保身を図ろうとしたこともある。この時点ならば朝義旧将は懷仙を除き弱体で、河北回復は可能だったと思われるが、唐朝も継戦の余力なく追認するしかなかった。
援軍である回紇軍は所々を徹底的に掠奪しながら引き上げていった。

三月甲辰,山南東道兵馬使梁崇義自立する。
瑱の殺害により山東軍は混乱し、瑱の崇拝者崇義が勝利して自立した。唐朝を信用しない諸将はこれを討伐するものがなく、自立を認めるしかなかった。

六月,同華節度使李懷讓自殺。
これも程元振の讒言を懼れてのことである。

唐朝は武人達の信用を完全に失っており、外征軍はまだ河北・淮南より帰還せず、京師關内は守るもの無く吐蕃の侵攻から無防備の状態であった。

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