十月、雍王适至陝州,回紇可汗屯于河北,
回紇可汗[肅宗と義兄弟の関係]は雍王[後の德宗]に甥としての目下の礼儀を要求し、抗議する唐朝の官吏を鞭打った。このため太子[德宗]は長く回紇を嫌悪することになった。
十月癸酉,雍王适克懷州。
甲戌,敗史朝義于橫水,克河陽、東都,史朝義將張獻誠以汴州降。
回紇の騎兵軍の助力を得た唐朝軍は次々と朝義軍を破った。反軍の將達も安禄山の弟分である史思明までは義理関係があり、禄山・思明には統率力もあったが、朝義にはなく崩壊の一途をたどった。
十一月丁亥,朝義將薛嵩以相、衛、洺、邢四州降。
丁酉,朝義將張忠志以趙、定、深、恒、易五州降。
本来は征討すべき賊将だが、回紇の援軍は負担が重く、唐朝には余力がなかった。それを知る僕固懷恩は積極的に歸順を受け入れ早期の平定を目指した。しかしその姿勢は徹底的な平定を考える宦官や武将からの疑惑を招くことにもなった。
十一月己亥,朔方行營節度使僕固懷恩為朔方、河北副元帥。
郭子儀は功績のある懷恩に地位を譲った。彼は代宗・宦官の猜疑を懼れて謹慎していた。
是歲,吐蕃寇秦、成、渭三州。
吐蕃は唐朝の弱体化に乗じて隴右地方を占領していった。
回紇可汗[肅宗と義兄弟の関係]は雍王[後の德宗]に甥としての目下の礼儀を要求し、抗議する唐朝の官吏を鞭打った。このため太子[德宗]は長く回紇を嫌悪することになった。
十月癸酉,雍王适克懷州。
甲戌,敗史朝義于橫水,克河陽、東都,史朝義將張獻誠以汴州降。
回紇の騎兵軍の助力を得た唐朝軍は次々と朝義軍を破った。反軍の將達も安禄山の弟分である史思明までは義理関係があり、禄山・思明には統率力もあったが、朝義にはなく崩壊の一途をたどった。
十一月丁亥,朝義將薛嵩以相、衛、洺、邢四州降。
丁酉,朝義將張忠志以趙、定、深、恒、易五州降。
本来は征討すべき賊将だが、回紇の援軍は負担が重く、唐朝には余力がなかった。それを知る僕固懷恩は積極的に歸順を受け入れ早期の平定を目指した。しかしその姿勢は徹底的な平定を考える宦官や武将からの疑惑を招くことにもなった。
十一月己亥,朔方行營節度使僕固懷恩為朔方、河北副元帥。
郭子儀は功績のある懷恩に地位を譲った。彼は代宗・宦官の猜疑を懼れて謹慎していた。
是歲,吐蕃寇秦、成、渭三州。
吐蕃は唐朝の弱体化に乗じて隴右地方を占領していった。
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