中和四年 西暦884年
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三月甲子,劍南東川節度副大使楊師立反。七月辛酉,楊師立伏誅。
征討に協力したのに見返りがなく、田令孜・陳敬瑄兄弟の専権を妬んだ師立が反しましたが、脆くも敗れました。
五月辛酉,朱全忠及黃巢戰,敗之。辛未,河東節度使李克用及巢戰于宛句,敗之。
唐朝軍の力では黄巣を討伐できませんでした。かえって巢の勢力は増大し河南諸鎭は苦境に立ちました。そこでまた沙陀李克用の支援を求めるのです。沙陀の騎兵軍は大挙南下すると巢軍を一蹴して追いつめます。
五月甲戌,李克用は一旦汴州[宣武朱全忠治所]に戻りその饗応を受けます。ところが全忠は夜間、克用宿舎を襲撃して殺そうとしました。この原因は私怨によるものか、あまりに強力な沙陀勢力を懼れたものかはわかりません。克用は必死で逃れました。
七月壬午,黃巢伏誅。
沙陀による大打撃から巢軍は回復せず、大部分は元の仲間である朱全忠か、有力な反軍を率いる秦宗權に帰服し、巢は甥林言に殺されました。
七月、李克用至晉陽,大治甲兵。
克用は本拠地太原に帰り着き、報復のために大軍を集めました。唐朝は乱を懼れてひたすら克用を宥めました[郡王にし、昭義軍や代北軍の併合を認める]。克用は一応忍耐しましたが、朱全忠とは犬猿の仲になりました。これからみると克用襲撃は全忠の独断とは思えません。
九月,山南西道節度使鹿晏弘反。
十一月,鹿晏弘陷許州,殺西度使周岌,自稱留後。
田令孜に圧迫された晏弘は山西を棄てて、故地へ向かいます。麾下の王建等は裏切って令孜につきますが、途中秦宗權と共同して山東節度劉巨容を逐い、忠武に到り節度使周岌をも滅ぼします。
十二月盜殺義昌軍節度使王鐸。
「盜」とは魏博節度使樂彥禎の凶暴な息子従訓です。恩がある義成節度使王鐸が邪魔になった朱全忠は、令孜と組んで、滄景義昌軍[盧彥威が自立しています]へ異動させます。宰相貴族であった鐸は大規模な行列を組んで赴任していきますが、それを阻止しようとする彥威の依頼を受けた従訓が、鐸の資財の掠奪もねらって襲撃し殺戮しました。犯人はわかっていますが弱体な唐朝にはなにもできません。
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三月甲子,劍南東川節度副大使楊師立反。七月辛酉,楊師立伏誅。
征討に協力したのに見返りがなく、田令孜・陳敬瑄兄弟の専権を妬んだ師立が反しましたが、脆くも敗れました。
五月辛酉,朱全忠及黃巢戰,敗之。辛未,河東節度使李克用及巢戰于宛句,敗之。
唐朝軍の力では黄巣を討伐できませんでした。かえって巢の勢力は増大し河南諸鎭は苦境に立ちました。そこでまた沙陀李克用の支援を求めるのです。沙陀の騎兵軍は大挙南下すると巢軍を一蹴して追いつめます。
五月甲戌,李克用は一旦汴州[宣武朱全忠治所]に戻りその饗応を受けます。ところが全忠は夜間、克用宿舎を襲撃して殺そうとしました。この原因は私怨によるものか、あまりに強力な沙陀勢力を懼れたものかはわかりません。克用は必死で逃れました。
七月壬午,黃巢伏誅。
沙陀による大打撃から巢軍は回復せず、大部分は元の仲間である朱全忠か、有力な反軍を率いる秦宗權に帰服し、巢は甥林言に殺されました。
七月、李克用至晉陽,大治甲兵。
克用は本拠地太原に帰り着き、報復のために大軍を集めました。唐朝は乱を懼れてひたすら克用を宥めました[郡王にし、昭義軍や代北軍の併合を認める]。克用は一応忍耐しましたが、朱全忠とは犬猿の仲になりました。これからみると克用襲撃は全忠の独断とは思えません。
九月,山南西道節度使鹿晏弘反。
十一月,鹿晏弘陷許州,殺西度使周岌,自稱留後。
田令孜に圧迫された晏弘は山西を棄てて、故地へ向かいます。麾下の王建等は裏切って令孜につきますが、途中秦宗權と共同して山東節度劉巨容を逐い、忠武に到り節度使周岌をも滅ぼします。
十二月盜殺義昌軍節度使王鐸。
「盜」とは魏博節度使樂彥禎の凶暴な息子従訓です。恩がある義成節度使王鐸が邪魔になった朱全忠は、令孜と組んで、滄景義昌軍[盧彥威が自立しています]へ異動させます。宰相貴族であった鐸は大規模な行列を組んで赴任していきますが、それを阻止しようとする彥威の依頼を受けた従訓が、鐸の資財の掠奪もねらって襲撃し殺戮しました。犯人はわかっていますが弱体な唐朝にはなにもできません。
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