建中4年10月、東都の救援のため節度使姚令言に率いられた涇原軍5千は、途次京師で反乱し德宗皇帝を逐い、朱泚を擁立しました。
令言は留守として兵馬使馮河清を涇原留後とし、判官姚況を知涇州事としていました。
河清等は反乱に従わず、德宗のいる奉天に甲兵、器械百餘車を送り込みました。德宗は河清を涇原節度使とし、況を行軍司馬に任じました。
しかし軍内には反卒となった涇原兵士の家族・友人や、旧幽州兵も多く、朱泚に親しみを持つ分子もあり不安定な状況でした。
興元元年4月
朱泚、姚令言は河清を誘いましたが従いません。そこで大將田希鑒を誘い河清等を殺害させました。
泚は希鑒を涇原節度使としました。
興元元年6月
李晟が京師を陥し、逃亡してきた泚・令言を希鑒は受け入れず、旧涇原兵は令言を殺し希鑒の元に戻りました。
興元元年閏10月
涇原節度使田希鑒を衛尉卿に任ずるという命令が下りました。
しかし叛者を赦さない鳳翔副元帥李晟は対吐蕃防衛巡察と称して涇州に入り、希鑒やその一党を誅殺しました。
令言は留守として兵馬使馮河清を涇原留後とし、判官姚況を知涇州事としていました。
河清等は反乱に従わず、德宗のいる奉天に甲兵、器械百餘車を送り込みました。德宗は河清を涇原節度使とし、況を行軍司馬に任じました。
しかし軍内には反卒となった涇原兵士の家族・友人や、旧幽州兵も多く、朱泚に親しみを持つ分子もあり不安定な状況でした。
興元元年4月
朱泚、姚令言は河清を誘いましたが従いません。そこで大將田希鑒を誘い河清等を殺害させました。
泚は希鑒を涇原節度使としました。
興元元年6月
李晟が京師を陥し、逃亡してきた泚・令言を希鑒は受け入れず、旧涇原兵は令言を殺し希鑒の元に戻りました。
興元元年閏10月
涇原節度使田希鑒を衛尉卿に任ずるという命令が下りました。
しかし叛者を赦さない鳳翔副元帥李晟は対吐蕃防衛巡察と称して涇州に入り、希鑒やその一党を誅殺しました。
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