會昌3年7月
寛厚で良吏の山南東道節度使盧鈞に昭義節度招撫使を兼任させ、昭義の民心を得ようとしました。
刑部侍郎兼御史中丞李回に河北三鎮を宣慰させ出兵を促しました。
典型的な政治的将軍の晉絳行營節度使李彥佐は武寧を立ち、緩慢に進軍しながら増兵と賞賜を求めました。
德裕は彥佐が逗留するとみて、回紇征討で活躍した天德防御使石雄を副将にしました。
雄は武寧軍出身で、その衆望を節度使王智興に憎まれて逐われた前歴を持ちます。
智興の子忠武王宰とは仇敵です。
王元逵は宣務柵を抜き、邢州堯山を攻め、昭義軍を破りました。
功績により元逵は使相となりました。
會昌3年8月
昭義大將李丕が來降しました。
元逵は魏博何弘敬が観望して動かないと訴えました。
德裕は忠武王宰を魏博を通過させて磁州を攻めさせると、弘敬を威嚇しました。
弘敬は領域に唐軍の進入することを懼れて、ただちに出師し磁州を攻めました。
昭義將薛茂卿は河陽軍を大破し懷州に迫りました。
朝議は和に傾きましたが德裕は聞きません。
河陽軍を支援するため忠武王宰は萬善に向かいました、
昭義將薛茂卿・張巨・劉公直は萬善を攻めましたが、河陽王茂元は義成軍の支援を得て守り抜きました。
會昌3年9月
河陽王茂元は卒し、忠武王宰が兼河陽行營攻討使として軍を併せて指揮します。
河南尹敬昕が河陽節度懷孟觀察使となり宰を支援します。
降將李丕を忻州刺史としました。
狼狽した何弘敬は強攻して洺州肥鄉、平恩を陥しました。恩賞として檢校左僕射を加えられました。
會昌3年10月
河東節度使劉沔を義成軍節度鄭滑濮觀察等使へ、荊南節度使李石を河東節度管内觀察等使にしました。沔は実績がある軍人ですが、幽州張仲武とは対立しており、北部戦線でははかばかしく動いていませんでした。石は元宰相の文官です、これは適当な人事ではありませんでした。
逗留して戦わない李彥佐を解任し、石雄を晉絳行營節度使とし、晉州冀氏より潞州に突入を命じました
石雄は命を受けると直ちに烏嶺を越えて進軍し、五寨を破りました。
当時主力の王宰軍は萬善,劉沔軍は石會にあり進軍しませんでしたので、武宗皇帝は喜び、雄に賜帛を与えました。雄はすべてを軍門に置き、自らは一匹だけとり、あとはすべて將士に分配しました。ゆえに將士は奮闘を誓いました。
會昌3年11月
將薛茂卿は大功がありましたが、劉稹は賞しませんでした。ために茂卿は忠武王宰に通じました。
會昌3年12月
王宰は天井關を攻めましたが、茂卿は守らず退却しました。茂卿は澤州に退き宰を誘いましたが、
宰は疑い進みませんでした。稹は茂卿の反を知り殺しました。
兵馬使劉公直が茂卿に代わり、安全慶が烏嶺,李佐堯が雕黄嶺,郭僚が石會,康良佺が武鄉を守りました。
王宰は澤州を攻めましたが、劉公直に撃退され、天井關も失いました。
その後宰は公直を大破し、澤州陵川を陥しました。
河東軍は石會關で勝ちました。
寛厚で良吏の山南東道節度使盧鈞に昭義節度招撫使を兼任させ、昭義の民心を得ようとしました。
刑部侍郎兼御史中丞李回に河北三鎮を宣慰させ出兵を促しました。
典型的な政治的将軍の晉絳行營節度使李彥佐は武寧を立ち、緩慢に進軍しながら増兵と賞賜を求めました。
德裕は彥佐が逗留するとみて、回紇征討で活躍した天德防御使石雄を副将にしました。
雄は武寧軍出身で、その衆望を節度使王智興に憎まれて逐われた前歴を持ちます。
智興の子忠武王宰とは仇敵です。
王元逵は宣務柵を抜き、邢州堯山を攻め、昭義軍を破りました。
功績により元逵は使相となりました。
會昌3年8月
昭義大將李丕が來降しました。
元逵は魏博何弘敬が観望して動かないと訴えました。
德裕は忠武王宰を魏博を通過させて磁州を攻めさせると、弘敬を威嚇しました。
弘敬は領域に唐軍の進入することを懼れて、ただちに出師し磁州を攻めました。
昭義將薛茂卿は河陽軍を大破し懷州に迫りました。
朝議は和に傾きましたが德裕は聞きません。
河陽軍を支援するため忠武王宰は萬善に向かいました、
昭義將薛茂卿・張巨・劉公直は萬善を攻めましたが、河陽王茂元は義成軍の支援を得て守り抜きました。
會昌3年9月
河陽王茂元は卒し、忠武王宰が兼河陽行營攻討使として軍を併せて指揮します。
河南尹敬昕が河陽節度懷孟觀察使となり宰を支援します。
降將李丕を忻州刺史としました。
狼狽した何弘敬は強攻して洺州肥鄉、平恩を陥しました。恩賞として檢校左僕射を加えられました。
會昌3年10月
河東節度使劉沔を義成軍節度鄭滑濮觀察等使へ、荊南節度使李石を河東節度管内觀察等使にしました。沔は実績がある軍人ですが、幽州張仲武とは対立しており、北部戦線でははかばかしく動いていませんでした。石は元宰相の文官です、これは適当な人事ではありませんでした。
逗留して戦わない李彥佐を解任し、石雄を晉絳行營節度使とし、晉州冀氏より潞州に突入を命じました
石雄は命を受けると直ちに烏嶺を越えて進軍し、五寨を破りました。
当時主力の王宰軍は萬善,劉沔軍は石會にあり進軍しませんでしたので、武宗皇帝は喜び、雄に賜帛を与えました。雄はすべてを軍門に置き、自らは一匹だけとり、あとはすべて將士に分配しました。ゆえに將士は奮闘を誓いました。
會昌3年11月
將薛茂卿は大功がありましたが、劉稹は賞しませんでした。ために茂卿は忠武王宰に通じました。
會昌3年12月
王宰は天井關を攻めましたが、茂卿は守らず退却しました。茂卿は澤州に退き宰を誘いましたが、
宰は疑い進みませんでした。稹は茂卿の反を知り殺しました。
兵馬使劉公直が茂卿に代わり、安全慶が烏嶺,李佐堯が雕黄嶺,郭僚が石會,康良佺が武鄉を守りました。
王宰は澤州を攻めましたが、劉公直に撃退され、天井關も失いました。
その後宰は公直を大破し、澤州陵川を陥しました。
河東軍は石會關で勝ちました。
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