唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

昭義 劉稹の乱 2

2022-11-21 08:53:41 | Weblog
會昌3年7月
寛厚で良吏の山南東道節度使盧鈞に昭義節度招撫使を兼任させ、昭義の民心を得ようとしました。

刑部侍郎兼御史中丞李回に河北三鎮を宣慰させ出兵を促しました。

典型的な政治的将軍の晉絳行營節度使李彥佐は武寧を立ち、緩慢に進軍しながら増兵と賞賜を求めました。
德裕は彥佐が逗留するとみて、回紇征討で活躍した天德防御使石雄を副将にしました。
雄は武寧軍出身で、その衆望を節度使王智興に憎まれて逐われた前歴を持ちます。
智興の子忠武王宰とは仇敵です。

王元逵は宣務柵を抜き、邢州堯山を攻め、昭義軍を破りました。
功績により元逵は使相となりました。

會昌3年8月
昭義大將李丕が來降しました。

元逵は魏博何弘敬が観望して動かないと訴えました。
德裕は忠武王宰を魏博を通過させて磁州を攻めさせると、弘敬を威嚇しました。
弘敬は領域に唐軍の進入することを懼れて、ただちに出師し磁州を攻めました。

昭義將薛茂卿は河陽軍を大破し懷州に迫りました。
朝議は和に傾きましたが德裕は聞きません。

河陽軍を支援するため忠武王宰は萬善に向かいました、

昭義將薛茂卿・張巨・劉公直は萬善を攻めましたが、河陽王茂元は義成軍の支援を得て守り抜きました。

會昌3年9月
河陽王茂元は卒し、忠武王宰が兼河陽行營攻討使として軍を併せて指揮します。
河南尹敬昕が河陽節度懷孟觀察使となり宰を支援します。

降將李丕を忻州刺史としました。

狼狽した何弘敬は強攻して洺州肥鄉、平恩を陥しました。恩賞として檢校左僕射を加えられました。

會昌3年10月
河東節度使劉沔を義成軍節度鄭滑濮觀察等使へ、荊南節度使李石を河東節度管内觀察等使にしました。沔は実績がある軍人ですが、幽州張仲武とは対立しており、北部戦線でははかばかしく動いていませんでした。石は元宰相の文官です、これは適当な人事ではありませんでした。

逗留して戦わない李彥佐を解任し、石雄を晉絳行營節度使とし、晉州冀氏より潞州に突入を命じました
石雄は命を受けると直ちに烏嶺を越えて進軍し、五寨を破りました。
当時主力の王宰軍は萬善,劉沔軍は石會にあり進軍しませんでしたので、武宗皇帝は喜び、雄に賜帛を与えました。雄はすべてを軍門に置き、自らは一匹だけとり、あとはすべて將士に分配しました。ゆえに將士は奮闘を誓いました。

會昌3年11月
將薛茂卿は大功がありましたが、劉稹は賞しませんでした。ために茂卿は忠武王宰に通じました。

會昌3年12月
王宰は天井關を攻めましたが、茂卿は守らず退却しました。茂卿は澤州に退き宰を誘いましたが、
宰は疑い進みませんでした。稹は茂卿の反を知り殺しました。
兵馬使劉公直が茂卿に代わり、安全慶が烏嶺,李佐堯が雕黄嶺,郭僚が石會,康良佺が武鄉を守りました。

王宰は澤州を攻めましたが、劉公直に撃退され、天井關も失いました。

その後宰は公直を大破し、澤州陵川を陥しました。

河東軍は石會關で勝ちました。

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