唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

昭義 劉稹の乱 3

2022-11-22 08:55:50 | Weblog
會昌4年正月
河東節度使李石は対昭義出兵により太原府兵が少なくなったので、横水戍兵を呼び返しました。しかし、前使劉沔が府庫の財を持ち去ったため、兵への賜物が少なく不満が爆発しました。都將楊弁はそれに乗じて乱を起こし、石を汾州に逐いました。

石會關守將楊珍は河東の乱を知り、關をもって稹に降りました。

朝廷は狼狽し、楊弁を留後とするとか、征討を中止するとかという論議が巻き起こりましたが、宰相德裕は断固として征討を続ける方針でした。

河東出征軍の將王逢に、義武・宣武・兗海の援軍をつけて楊弁を討つことを命じました。
また成徳王元逵に王逢軍を支援させるようにしました。

榆社駐屯の河東兵主力は、他軍が太原府に入り、自分達の家族を害することを懼れ、監軍呂義忠を擁して太原に入り、乱軍を潰滅させ楊弁を誅しました。

會昌4年2月
李石を左遷して太子少傅分司、文官河中節度使崔元式を河東節度使、石雄を河中節度使としました。王宰が澤州で逗留しているため、石雄の河中からの進軍を期待したわけです。

石雄は進軍し良馬等三寨一堡を陥しました。

軍人として実績のある義成軍節度使劉沔を河陽節度使とし、逗留する王宰に、征討使交代の可能性を示しました。

河東將王逢は昭義將康良佺を破り、石會關を回復しました。

會昌4年3月
石雄を兼冀氏行營攻討使とし、晉州刺史李丕を副としました。

會昌4年4月
王宰はついに動き、澤州を攻めました。

會昌4年7月
劉稹の腹心將高文端が降り、昭義の内情をばらしました。

昭義軍將裴問及邢州刺中崔嘏が邢州をもって成徳王元逵に降りました。

洺州刺史王釗、磁州刺史安玉は魏博何弘敬に降りました。

會昌4年8月
德裕は邢洺磁三州を魏博が占有することを懼れ、給事中盧弘止を三州留後として派遣しました。

昭義軍は三州が反したことで大きく動揺し、大将郭誼、王協等は劉稹を殺して降りました。亡命していた甘露の変の宰相一族も殺しました。

石雄が潞州に入り、来降した郭誼、王協なども全て誅しました。

恩賞として何弘敬が使相となりました。

劉從諫の墓を暴き、潞州市に晒しました、宦官達の恨みによります。

山東兼昭義節度の盧鈞が昭義節度使専任として潞州に入りました。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 昭義 劉稹の乱 2 | トップ | 安南 楊淸の乱 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事