正月,有事於南郊。大赦,改元。
宣宗即位を太廟に告げる儀式と「大中」への改元である[通常即位の翌年]。
三月,宰相盧商が解任され、崔元式や韋琮が任命される。
會昌中頃より両唐書の記載が極めていい加減になる。これは新唐書による。
旧唐書では 盧商の解任 →八月 任命は韋琮七月、崔元式の任命は実に
會昌5年5月。通鑑では 盧商、韋琮と崔元式はいずれも二月である。
この頃の登用基準は德裕時代に冷遇されたものが中心であった。
五月,幽州張仲武が奚を破る。
幽州節度使が奚や契丹・回鶻に対処してくれているので唐朝は気楽である。
吐蕃、回鶻寇河西に侵攻,河東節度使王宰[智興の子]が撃退。
吐蕃論恐熱が武宗崩御の隙を狙って侵攻してきたが、王宰が撃退した。このころ
吐蕃も内訌により弱体化し、回鶻は帝国崩壊後に吐蕃に歸附した残党である。
六月令狐綯を郎中知制誥に登用。
宣宗は父憲宗皇帝時代の治政に憧れていて、元和の遺臣の子を探して登用して
いった。綯は宰相楚の子である
八月丙申,德裕派の残党である宰相李回が解任される。
十二月戊午,李德裕を潮州司馬とし、その後流す。
徹底した德裕派排除が行われる。処罰理由は些細な行き過ぎを過大解釈したも
のである。宰相白敏中等が德裕の復活を懼れてでっちあげたと思われる。
宣宗即位を太廟に告げる儀式と「大中」への改元である[通常即位の翌年]。
三月,宰相盧商が解任され、崔元式や韋琮が任命される。
會昌中頃より両唐書の記載が極めていい加減になる。これは新唐書による。
旧唐書では 盧商の解任 →八月 任命は韋琮七月、崔元式の任命は実に
會昌5年5月。通鑑では 盧商、韋琮と崔元式はいずれも二月である。
この頃の登用基準は德裕時代に冷遇されたものが中心であった。
五月,幽州張仲武が奚を破る。
幽州節度使が奚や契丹・回鶻に対処してくれているので唐朝は気楽である。
吐蕃、回鶻寇河西に侵攻,河東節度使王宰[智興の子]が撃退。
吐蕃論恐熱が武宗崩御の隙を狙って侵攻してきたが、王宰が撃退した。このころ
吐蕃も内訌により弱体化し、回鶻は帝国崩壊後に吐蕃に歸附した残党である。
六月令狐綯を郎中知制誥に登用。
宣宗は父憲宗皇帝時代の治政に憧れていて、元和の遺臣の子を探して登用して
いった。綯は宰相楚の子である
八月丙申,德裕派の残党である宰相李回が解任される。
十二月戊午,李德裕を潮州司馬とし、その後流す。
徹底した德裕派排除が行われる。処罰理由は些細な行き過ぎを過大解釈したも
のである。宰相白敏中等が德裕の復活を懼れてでっちあげたと思われる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます