三月壬戌,武宗皇帝が崩御した。
三十三歳。宦官仇士良に擁立されたが、その言いなりにはならず、剛腕の宰相
李徳裕を起用して治政に励んでいた。そして回紇帝国の崩壊の後始末・昭義節
度劉稹の討伐に引き続き、腐敗した仏教教団を弾圧し、その財産を国有化する
ことで財政再建に努めている最中であった。反面道教に熱中し悪名高い「金丹」
を服用した。ために中毒死したとも言われるが仏教側の毒殺かもしれない。
・宰相李徳裕の専権に対して宦官や官僚団より反感が強まっていた。
・仇士良が失脚した後、宦官内で権力闘争がおきていた。
・仏教団解体は全国的に大混乱を引き起こしていて、反感もきつかった。
・河北三鎮等は親和的であり問題はなかった。
・回紇崩壊後、辺境地域は混乱しつつも大問題は起きていなかった。
三月丁卯、宦官中尉馬元贄は光王怡[宣宗]を皇太叔として擁立した。
宣宗は憲宗皇帝の十三子であり、光王に封ぜられていたが、その他大勢の皇族
であり、皇位は敬宗-文宗-武宗など子や孫の世代に移っていた。また愚鈍と思
われており、武宗からその鈍さをからかわれる対象であった。武宗等にも皇子
はいたにも関わらず、宦官達は筋違いで愚鈍で扱いやすく、推戴に恩義を感じ
てくれるだろう光王を無理やり即位させた。
四月丙子,剛腕宰相李德裕が解任され荊南節度使に出された。
愚鈍を装っていた宣宗は、突然に強権を振るっていた李德裕を解任し、宦官官
僚を驚愕させた。德裕は強い反感を受けていたが、実績も大きく、太尉の最高
官についていた。
四月辛卯,李讓夷が司空となった。
お飾りであり、まもなく解任される。
五月翰林學士承旨の白敏中が宰相となる。
德裕解任の黒幕である。白楽天の甥だが詩才はなく、単なる文治官僚でしかない。
德裕に引き立てられていたが穴を掘るという人物である。自分の意志を示したい
宣宗皇帝にとっては御し易い人物であった。
九月,宰相鄭肅が解任、盧商に代わった。
両者とも凡庸であった。
三十三歳。宦官仇士良に擁立されたが、その言いなりにはならず、剛腕の宰相
李徳裕を起用して治政に励んでいた。そして回紇帝国の崩壊の後始末・昭義節
度劉稹の討伐に引き続き、腐敗した仏教教団を弾圧し、その財産を国有化する
ことで財政再建に努めている最中であった。反面道教に熱中し悪名高い「金丹」
を服用した。ために中毒死したとも言われるが仏教側の毒殺かもしれない。
・宰相李徳裕の専権に対して宦官や官僚団より反感が強まっていた。
・仇士良が失脚した後、宦官内で権力闘争がおきていた。
・仏教団解体は全国的に大混乱を引き起こしていて、反感もきつかった。
・河北三鎮等は親和的であり問題はなかった。
・回紇崩壊後、辺境地域は混乱しつつも大問題は起きていなかった。
三月丁卯、宦官中尉馬元贄は光王怡[宣宗]を皇太叔として擁立した。
宣宗は憲宗皇帝の十三子であり、光王に封ぜられていたが、その他大勢の皇族
であり、皇位は敬宗-文宗-武宗など子や孫の世代に移っていた。また愚鈍と思
われており、武宗からその鈍さをからかわれる対象であった。武宗等にも皇子
はいたにも関わらず、宦官達は筋違いで愚鈍で扱いやすく、推戴に恩義を感じ
てくれるだろう光王を無理やり即位させた。
四月丙子,剛腕宰相李德裕が解任され荊南節度使に出された。
愚鈍を装っていた宣宗は、突然に強権を振るっていた李德裕を解任し、宦官官
僚を驚愕させた。德裕は強い反感を受けていたが、実績も大きく、太尉の最高
官についていた。
四月辛卯,李讓夷が司空となった。
お飾りであり、まもなく解任される。
五月翰林學士承旨の白敏中が宰相となる。
德裕解任の黒幕である。白楽天の甥だが詩才はなく、単なる文治官僚でしかない。
德裕に引き立てられていたが穴を掘るという人物である。自分の意志を示したい
宣宗皇帝にとっては御し易い人物であった。
九月,宰相鄭肅が解任、盧商に代わった。
両者とも凡庸であった。
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