唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

會昌六年 西暦 846 和暦 承和13年[仁明天皇]

2020-02-21 10:00:38 | Weblog
三月壬戌,武宗皇帝が崩御した。
 三十三歳。宦官仇士良に擁立されたが、その言いなりにはならず、剛腕の宰相
 李徳裕を起用して治政に励んでいた。そして回紇帝国の崩壊の後始末・昭義節
 度劉稹の討伐に引き続き、腐敗した仏教教団を弾圧し、その財産を国有化する
 ことで財政再建に努めている最中であった。反面道教に熱中し悪名高い「金丹」
 を服用した。ために中毒死したとも言われるが仏教側の毒殺かもしれない。

・宰相李徳裕の専権に対して宦官や官僚団より反感が強まっていた。
・仇士良が失脚した後、宦官内で権力闘争がおきていた。
・仏教団解体は全国的に大混乱を引き起こしていて、反感もきつかった。
・河北三鎮等は親和的であり問題はなかった。
・回紇崩壊後、辺境地域は混乱しつつも大問題は起きていなかった。

三月丁卯、宦官中尉馬元贄は光王怡[宣宗]を皇太叔として擁立した。
 宣宗は憲宗皇帝の十三子であり、光王に封ぜられていたが、その他大勢の皇族
 であり、皇位は敬宗-文宗-武宗など子や孫の世代に移っていた。また愚鈍と思
 われており、武宗からその鈍さをからかわれる対象であった。武宗等にも皇子
 はいたにも関わらず、宦官達は筋違いで愚鈍で扱いやすく、推戴に恩義を感じ
 てくれるだろう光王を無理やり即位させた。

四月丙子,剛腕宰相李德裕が解任され荊南節度使に出された。
 愚鈍を装っていた宣宗は、突然に強権を振るっていた李德裕を解任し、宦官官
 僚を驚愕させた。德裕は強い反感を受けていたが、実績も大きく、太尉の最高
 官についていた。

四月辛卯,李讓夷が司空となった。
 お飾りであり、まもなく解任される。

五月翰林學士承旨の白敏中が宰相となる。
 德裕解任の黒幕である。白楽天の甥だが詩才はなく、単なる文治官僚でしかない。
 德裕に引き立てられていたが穴を掘るという人物である。自分の意志を示したい
 宣宗皇帝にとっては御し易い人物であった。

九月,宰相鄭肅が解任、盧商に代わった。
 両者とも凡庸であった。

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