愚帝 [敬宗皇帝の愚行と宦官]
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宮城の門横の金雞の下には大赦を受けた囚人達が並んでいます。
寶暦元年の正月のことです。
囚人達は最後にここで晒し者にされ、その後釈放されるのです。
前県令の崔發も並ばされていました。
その時、「ここにいやがったぞ」「こいつか發は」「ぶっ殺してしまえ」
50人もの宦官達が手に手に棒を持って集まってきました。
發は県令として、百姓に暴力を振るっていた宦官を捕らえただけだけです。
多少行き過ぎはあったとはいえ、不法なのは宦官のほうでした。
ところが敬宗皇帝は宦官達の告発を受けていきなり發を獄にぶちこんだのだのです。
幸い、大赦があり赦されることになったのですが。
「やっちまえ・・・」、宦官達は次々と發を殴打し、歯が折れ頭から血が噴き出した。
獄吏があわてて發を連れだし獄に戻しました。
さらに帝から發を釈放しないようにという命も下りました。
發は獄中で死んだように横たわりました。
諫官達は次々に、「悪いのは宦官であり、發に罪はない」と上奏したが
帝は頑なになるだけで赦そうとはしませんでした。
しかたなく「ガキにはガキ向きのやり方でいかねばな」と老獪な宰相李逢吉が乗り出しました。
「發は赦しがたい罪人でございますな」
「宰相もそう思うか」と帝
「諌官達は朕が間違っているとうるさいんだよ」
「いやいや、帝の権威を傷付けました。有罪です」
敬宗は満足そうな表情をした。
「ただ、發に八十を超えた老母がいて、血を吐くほど心配しております」
「母がか?」
「毎日寺参りをして帝のお赦しをひたすら願っているそうですよ」
母親思いというよりママボーイの帝は、それを聞くと深刻な顔になった。
「誰もそんな事は言わなかったぞ、法がどうのこうの言って・・・・」
「子を思わない母親はおりませんよ」と逢吉はとどめをさした。
「赦してやる。母を安心させてやらんとな」
發はやっと釈放されることになった。
母は中使[宦官]の前で發に杖四十を加え、それ以上の迫害を防いだ。
*******背景*******
長慶四年正月頓死した穆宗皇帝の後を、十六歳で継いだ敬宗は知能の遅れた不良少年で、皇帝としての自覚はまったくなく、政務を怠りポロ競技とレスリングに没頭する馬鹿でしかありませんでした。
せっかく憲宗皇帝が再統一した帝国も穆宗により崩壊しましたが、このころには内乱は小康状態を示していました。
宰相陣は牛僧孺・李程・竇易直と李逢吉でしたが、なかでも逢吉が無能で政務に関心のない敬宗を操っていました。
崔發の事件も宦官に非があるのですが、敬宗は宦官達の意見だけしかききません。
馬鹿さ加減に呆れた僧孺は節度使に転出してしまいました。
老獪な逢吉は低能の敬宗の母親思いを利用してとりなしたのですが、
官民は皇帝の馬鹿さ加減を知りいろいろな事件が起こっていくのです。
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