文宗即位前史
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文宗の前代敬宗皇帝は頓死した無能な穆宗の長子であったので即位したが。低能粗暴な不良少年であった。皇帝としての自覚もなく、日夜徘徊し、仲間の不良宦官や力士と遊び狂っていたが、気に入らないことがあると仲間に対しても凶暴な態度をとり無茶な処罰をした。
寶暦二年十二月辛丑,宴会し仲間と揉め事を起こし殺された。狼狽した仲間の宦官劉克明等は絳王悟[憲宗の子]を擁立しようとしたが、主流派宦官王守澄、楊承和、魏從簡、梁守謙等はそれを認めず、江王涵[穆宗次男]を擁立し、克明や絳王を殺した。
唐朝の正常な統治を考える宦官達からみても敬宗のような不良皇帝では統治不能であり、小心で真面目そうな江王が好ましいと思われたのだろう。
宝暦二年 西暦826年
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十二月乙已,文宗即位,更名昂。
憲宗以来の宰相裴度が塚宰[葬儀の責任者]である。度は高名ではあるがたいした能力はない。
十二月庚戌,翰林學士韋處厚が宰相になる。
宦官と並び実質的政策を処理する翰林院の代表である。
大和元年 西暦827年
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五月丙子,以天平節度使烏重胤為橫海節度使,以前橫海節度副使李同捷為兗海節度使。
横海軍節度李全略の卒後、成德節度王廷湊の支援のもと、子の同捷が自立していた。唐朝としては横海の自立は認められず、かといって文宗が即位して間もないのに征討軍を出すのもためらわれたため。同捷を別の節度に任命するという融和策を講じたわけである。しかし増長した同捷は従わなかった。
六月癸巳,淮南節度使王播が宰相となる。
鹽鐵業務で莫大な蓄財をした播が贈賄により宰相に復帰した。当然鹽鐵も兼務である。
八月,庚子,削同捷官爵,命天平烏重胤、武寧王智興、淄青康志睦、魏博史憲誠、幽州李載義、義成李聽、義武張璠に征討を下命。
同捷と成德王廷湊が対象である。興味深いのは自分も自立した武寧王智興が征討に積極的なことで、魏博史憲誠は消極的である。討伐の主将は烏重胤であるが病身であった。
十一月丙寅,烏重胤薨。庚辰,以保義節度使李寰為橫海節度使。
寰は旧成徳将、王廷湊の自立時に対立した仲であり唐朝に帰属していた。
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文宗の前代敬宗皇帝は頓死した無能な穆宗の長子であったので即位したが。低能粗暴な不良少年であった。皇帝としての自覚もなく、日夜徘徊し、仲間の不良宦官や力士と遊び狂っていたが、気に入らないことがあると仲間に対しても凶暴な態度をとり無茶な処罰をした。
寶暦二年十二月辛丑,宴会し仲間と揉め事を起こし殺された。狼狽した仲間の宦官劉克明等は絳王悟[憲宗の子]を擁立しようとしたが、主流派宦官王守澄、楊承和、魏從簡、梁守謙等はそれを認めず、江王涵[穆宗次男]を擁立し、克明や絳王を殺した。
唐朝の正常な統治を考える宦官達からみても敬宗のような不良皇帝では統治不能であり、小心で真面目そうな江王が好ましいと思われたのだろう。
宝暦二年 西暦826年
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十二月乙已,文宗即位,更名昂。
憲宗以来の宰相裴度が塚宰[葬儀の責任者]である。度は高名ではあるがたいした能力はない。
十二月庚戌,翰林學士韋處厚が宰相になる。
宦官と並び実質的政策を処理する翰林院の代表である。
大和元年 西暦827年
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五月丙子,以天平節度使烏重胤為橫海節度使,以前橫海節度副使李同捷為兗海節度使。
横海軍節度李全略の卒後、成德節度王廷湊の支援のもと、子の同捷が自立していた。唐朝としては横海の自立は認められず、かといって文宗が即位して間もないのに征討軍を出すのもためらわれたため。同捷を別の節度に任命するという融和策を講じたわけである。しかし増長した同捷は従わなかった。
六月癸巳,淮南節度使王播が宰相となる。
鹽鐵業務で莫大な蓄財をした播が贈賄により宰相に復帰した。当然鹽鐵も兼務である。
八月,庚子,削同捷官爵,命天平烏重胤、武寧王智興、淄青康志睦、魏博史憲誠、幽州李載義、義成李聽、義武張璠に征討を下命。
同捷と成德王廷湊が対象である。興味深いのは自分も自立した武寧王智興が征討に積極的なことで、魏博史憲誠は消極的である。討伐の主将は烏重胤であるが病身であった。
十一月丙寅,烏重胤薨。庚辰,以保義節度使李寰為橫海節度使。
寰は旧成徳将、王廷湊の自立時に対立した仲であり唐朝に帰属していた。
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