唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

王廷湊/王庭湊伝

2019-03-14 11:54:14 | Weblog
徹頭徹尾反唐朝を貫いた、蕃族出身の將軍。成德節度は五代まで王氏が継承した。

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王廷湊/王庭湊伝
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廷湊は回鶻阿布思之種族。
代々安東都護府に隷属していた。

曾祖五哥之は,李寶臣父子に仕え、王武俊の假子となり王姓を名乗る。
祖は末怛活,父は昇朝であり成徳軍の騎將であった。

廷湊は寡言で有斷、衙內兵馬使/都知兵馬使となる。

魏博田弘正が成德軍節度使になるが、廷湊は不満であり事ごとに衆を煽った。
しかし弘正が魏博兵二千を親衛として警戒している間はどうしようもなかった。

ところが唐朝の宰相崔植・杜元潁は河北の情勢を知らず、ただ財政面だけを考え、親衛兵の経費をけちったため、長慶元年六月.親衛兵は帰還した。

七月.廷湊は反乱し、弘正と將吏家族三百余人を殺し自立した。また幽州でも朱克融が反乱し唐朝が派遣した節度使張弘靖を監禁した。

冀州を取り刺史王進岌を殺した。

唐朝は河東節度裴度を幽鎮兩道招撫使とし、弘正の子涇原節度使布を魏博節度使とし、成德將深州刺史牛元翼為成德軍節度使として、橫海昭義河東義武軍を派遣して廷湊を伐たせた。
鎭州でも親唐朝派が廷湊を除こうとしたが発覚し坐死者二千餘人。

ところが討伐軍は動かず、八月.牛元翼は深州に籠城したる

実際の征討総帥である横海節度使烏重胤は戦況の不利を説いたが、穆宗皇帝はこれを左遷[山西節度へ]
して神策軍将杜叔良を深冀行營節度使として伐たせた。

十月.廷湊は貝州を陥した。

十一月.宦官とつながるだけの凡將杜叔良は博野で大敗した。義武軍節度陳楚だけが功績があった。

そこで鳳翔節度使李光顏を忠武節度使兼深冀節度として深州を救わせることになったが、
穆宗皇帝の浪費のために軍費が枯渇しており、光顔軍も補給不足で崩壊するありさまであった。

宰相達は財政悪化を懼れて、成德・幽州を手放す決定をし、
十二月.まず朱克融を赦した。

二年正月.成德攻撃中の魏博軍は自壊し、布は責任を感じて自殺した。魏博は史憲誠が自立した。

二月.廷湊は檢校右散騎常侍鎮州大都督府長史成德軍節度鎮冀深趙等州觀察等使になり、元冀は山南東道節度使に移された。

しかし克融と廷湊は深州を包囲を解かなかった。

招撫使裴度が説得したため克融は鎭に戻り、廷湊もまた包囲を緩めた。三月.檢校工部尚書

四月.元翼は深州を脱走し、廷湊は残留した部下を殺した。

五月.唐朝は元翼の家族と田弘正の遺骸を求めたが、廷湊は応じなかった。

元翼が山東節度で卒すると、廷湊はその家属を族滅した。

そして朱克融、史憲誠と連衡して唐朝に対抗し続けた。

宝暦二年.克融・廷湊は東都修築に出兵して支援をしたいと唐朝を脅かした。

太和元年.滄州で李同捷が自立すると、それを支援し唐朝軍と戦った。
幽州李載義は唐朝に付き、魏博史憲誠は両端を保った。

二年八月/九月.唐朝は廷湊を伐つこととした。

廷湊の指嗾により魏博將丌志沼は行營兵を以って叛し史憲誠を攻めたが、義成軍節度使李聽に撃破された。

三年六月.李同捷は誅されたが、魏博史憲誠もまた何進滔に乱殺され情勢は好転しなかった。

八月,廷湊は檢校司徒成德軍節度使に復したが反唐朝姿勢は変わらなかった。

加太子太傅.太原郡開國公食邑二千戶。

八年十一月.卒 冊贈太尉,累贈至太師。
子元逵が嗣ぎ、唐朝へは融和的になった。
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