咸通十年[869]
◎.正月 龐勛を南方から征討していた軍人右神武大將軍馬舉が揚州都督府司馬充淮南行營招討使となった。その後權知淮南節度事になったと見られる。
◆.咸通10.濠州隷武寧軍
◎.4月 龐勛の乱では失態ばかりだった淮南節度使檢校司空平章事上柱國涼國公食邑三千戸令狐綯は太子太保分司に左遷された。
◎.9月 徐州南面招討使檢校尚書左僕射右神武大將軍權知淮南節度事扶風縣開國伯食邑一千戸馬舉[字?]が檢校司空兼揚州大都督府長史淮南節度副大使知節度事となった。
咸通十一年
◎.11/12月 檢校尚書右僕射汴州刺史宣武軍節度觀察等使李蔚[字茂休]が檢校吏部尚書揚州大都督府長史兼淮南節度副大使知節度事となった。乱で荒れ果てた淮南の復興にあたり善政を敷いた。馬舉がどうなったかは記録が無い。
乾符元年
◎.4月 淮南節度使李蔚は吏部尚書となりまもなく宰相に昇格した。
◎.10月 僖宗が即位し牛派の蕭倣、崔彥昭が登用され、李派の流れである宰相劉鄴[字漢籓]が檢校左僕射同平章事兼揚州大都督府長史充淮南節度觀察副大使知節度事として出た。
乾符四年~六年
王仙芝・黃巢が河南、山南、淮南を大掠し、征討と称する官軍はさらに大掠して郡邑は荒廃していった。
乾符六年
◎.10月 檢校司空兼鎮海軍節度蘇常杭潤觀察處置江淮鹽鐵轉運江西招討等使高駢が檢校司徒同平章事揚州大都督府長史充淮南節度副大使知節度事江淮鹽鐵轉運江南行營招討等使,進燕國公食邑三千戸となった。駢は雲南蠻を安南で大破した実績があり、劍南西川・荊南・浙西と移鎭して黄巣達から要地を防衛する役割を与えられていた。彼は強力な軍を持ち賊軍を討滅しようと意気込んでいたが、どちらかといえば旧式の軍人であった。
◎.正月 龐勛を南方から征討していた軍人右神武大將軍馬舉が揚州都督府司馬充淮南行營招討使となった。その後權知淮南節度事になったと見られる。
◆.咸通10.濠州隷武寧軍
◎.4月 龐勛の乱では失態ばかりだった淮南節度使檢校司空平章事上柱國涼國公食邑三千戸令狐綯は太子太保分司に左遷された。
◎.9月 徐州南面招討使檢校尚書左僕射右神武大將軍權知淮南節度事扶風縣開國伯食邑一千戸馬舉[字?]が檢校司空兼揚州大都督府長史淮南節度副大使知節度事となった。
咸通十一年
◎.11/12月 檢校尚書右僕射汴州刺史宣武軍節度觀察等使李蔚[字茂休]が檢校吏部尚書揚州大都督府長史兼淮南節度副大使知節度事となった。乱で荒れ果てた淮南の復興にあたり善政を敷いた。馬舉がどうなったかは記録が無い。
乾符元年
◎.4月 淮南節度使李蔚は吏部尚書となりまもなく宰相に昇格した。
◎.10月 僖宗が即位し牛派の蕭倣、崔彥昭が登用され、李派の流れである宰相劉鄴[字漢籓]が檢校左僕射同平章事兼揚州大都督府長史充淮南節度觀察副大使知節度事として出た。
乾符四年~六年
王仙芝・黃巢が河南、山南、淮南を大掠し、征討と称する官軍はさらに大掠して郡邑は荒廃していった。
乾符六年
◎.10月 檢校司空兼鎮海軍節度蘇常杭潤觀察處置江淮鹽鐵轉運江西招討等使高駢が檢校司徒同平章事揚州大都督府長史充淮南節度副大使知節度事江淮鹽鐵轉運江南行營招討等使,進燕國公食邑三千戸となった。駢は雲南蠻を安南で大破した実績があり、劍南西川・荊南・浙西と移鎭して黄巣達から要地を防衛する役割を与えられていた。彼は強力な軍を持ち賊軍を討滅しようと意気込んでいたが、どちらかといえば旧式の軍人であった。
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