◎.劍南西川節度使杜悰が再任された。
◎. 淮南は飢饉となり民は流亡したが、名門貴族であるだけの杜悰は遊宴に明け暮れ対策をとろうとしなかった。
大中九年[855]
◎.7月 衰亡していく唐朝の政治をなんとか立て直したいと努力していた宣宗皇帝は呆れて、杜悰を太子太傅分司に左遷したが、やがて東都留守に任じた。皇帝権力は弱く貴族達への配慮は欠かせなかった。
◎.7月 唐朝の財源である淮南の治政を安定させるため信任厚い宰相.博陵縣伯崔鉉を檢校司空/司徒同平章事兼揚州大都督府長史充淮南節度副大使知節度使事.魏国公とした。宣宗は宴を賜い激励した。
大中十二年[858]
◎.8月 南部で軍乱が続き、隣接する宣州で將康全泰が乱して、宣歙観察使鄭薫が逐われた。節度使崔鉉が宣歙觀察使を兼任し、宋州刺史温璋を宣州團練使として鎮圧に向かわせた。このころ南部では雲南蠻が蠢動したが、方鎭は長期の平和により觀察使達の収奪により、牙軍の待遇は悪く、弱体化して遊民の集団と化して軍紀はないも同然だった。嶺南→湖南→江西→宣歙→容管と次々に軍乱が起こった。
◎.10月 康全泰や其黨四百餘人が誅された。レベルが低い雑軍の乱軍は、山東などの正規軍に次々と鎮圧されたが、治政方針の転換はされず崩壊した雑軍が残るだけであった。
◆.大中12.淮南節度増領申州.未幾申州復武昌軍
大中十四年/咸通元年[860]
◎. 浙東で賊帥裘甫が乱を起こし、王式が征討にあたり淮南軍も出兵した。この時期吐蕃や回紇などが江淮に移住させられていたらしく、式は騎兵として活用した。
咸通三年[862]
◎.8月 王式が倨傲な徐州武寧軍の牙軍を誅殺し、その濠州を淮南節度領に、あとは宿泗都團練觀察使とした。
◆.咸通4.淮南節度増領濠州
◎.冬 淮南節度使崔鉉は荊南節度使に移り、長らく宣宗皇帝のもとで専権をふるっていた宰相令狐綯が、懿宗皇帝に免ぜられて同平章事兼揚州大都督府長史充淮南節度副大使知節度使事となって赴任した。
咸通五年[864]
◎.正月 令狐綯は子の滈が収賄で諌官から弾劾されている事に抗議した。収賄は事実であったが滈は父の代理として行ったもので、懿宗はやむを得ず諌官達を貶した。
咸通九年[868]
◎.9月 桂州に屯していた徐州兵[首領は龐勛]達が勝手に離任して帰還しようとし、浙西を過ぎて淮南に入った。都押牙李湘はこれを討とうとしたが、臆病で姑息な令狐綯は騒乱を望まず通過させた。勛達は徐州に戻り大乱を起こした。
◎.11月 乱は拡大し、康承訓等が征討することになり、都將袁公弁などが淮南兵を率いて参加した。
◎.12月 李湘が泗州を救援にしたが大敗した。
咸通十年[869]
◎.4月 龐勛の乱では失態ばかりだった令狐綯は太子太保分司に左遷された。
◎. 淮南は飢饉となり民は流亡したが、名門貴族であるだけの杜悰は遊宴に明け暮れ対策をとろうとしなかった。
大中九年[855]
◎.7月 衰亡していく唐朝の政治をなんとか立て直したいと努力していた宣宗皇帝は呆れて、杜悰を太子太傅分司に左遷したが、やがて東都留守に任じた。皇帝権力は弱く貴族達への配慮は欠かせなかった。
◎.7月 唐朝の財源である淮南の治政を安定させるため信任厚い宰相.博陵縣伯崔鉉を檢校司空/司徒同平章事兼揚州大都督府長史充淮南節度副大使知節度使事.魏国公とした。宣宗は宴を賜い激励した。
大中十二年[858]
◎.8月 南部で軍乱が続き、隣接する宣州で將康全泰が乱して、宣歙観察使鄭薫が逐われた。節度使崔鉉が宣歙觀察使を兼任し、宋州刺史温璋を宣州團練使として鎮圧に向かわせた。このころ南部では雲南蠻が蠢動したが、方鎭は長期の平和により觀察使達の収奪により、牙軍の待遇は悪く、弱体化して遊民の集団と化して軍紀はないも同然だった。嶺南→湖南→江西→宣歙→容管と次々に軍乱が起こった。
◎.10月 康全泰や其黨四百餘人が誅された。レベルが低い雑軍の乱軍は、山東などの正規軍に次々と鎮圧されたが、治政方針の転換はされず崩壊した雑軍が残るだけであった。
◆.大中12.淮南節度増領申州.未幾申州復武昌軍
大中十四年/咸通元年[860]
◎. 浙東で賊帥裘甫が乱を起こし、王式が征討にあたり淮南軍も出兵した。この時期吐蕃や回紇などが江淮に移住させられていたらしく、式は騎兵として活用した。
咸通三年[862]
◎.8月 王式が倨傲な徐州武寧軍の牙軍を誅殺し、その濠州を淮南節度領に、あとは宿泗都團練觀察使とした。
◆.咸通4.淮南節度増領濠州
◎.冬 淮南節度使崔鉉は荊南節度使に移り、長らく宣宗皇帝のもとで専権をふるっていた宰相令狐綯が、懿宗皇帝に免ぜられて同平章事兼揚州大都督府長史充淮南節度副大使知節度使事となって赴任した。
咸通五年[864]
◎.正月 令狐綯は子の滈が収賄で諌官から弾劾されている事に抗議した。収賄は事実であったが滈は父の代理として行ったもので、懿宗はやむを得ず諌官達を貶した。
咸通九年[868]
◎.9月 桂州に屯していた徐州兵[首領は龐勛]達が勝手に離任して帰還しようとし、浙西を過ぎて淮南に入った。都押牙李湘はこれを討とうとしたが、臆病で姑息な令狐綯は騒乱を望まず通過させた。勛達は徐州に戻り大乱を起こした。
◎.11月 乱は拡大し、康承訓等が征討することになり、都將袁公弁などが淮南兵を率いて参加した。
◎.12月 李湘が泗州を救援にしたが大敗した。
咸通十年[869]
◎.4月 龐勛の乱では失態ばかりだった令狐綯は太子太保分司に左遷された。
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