貞元2年6月
李希烈に寵愛されていた少誠は、唐に帰順していた節度使陳仙奇を殺害し自立しました。
疲弊していた朝廷は征討する余力が無く、虔王諒を名目的な申光隨蔡節度大使とし、少誠を留後として継承を認めることになりました。
貞元3年3月
仙奇が、唐朝への忠誠を示すため防秋に派遣していた5千人のうち、4千人が少誠の指嗾を受け無断帰国しました。途中諸鎮に迎撃され蔡州にたどりついたのは50人にすぎませんでした。少誠はその少なさに激怒してすべて殺しました。
貞元3年5月
申州刺史張伯元、判官鄭常等が、反唐的な少誠を逐おうとして失敗し殺されました。
貞元9年12月
宣武の軍乱に介入しようとし、李萬榮に一蹴されました。
貞元12年1月
申光蔡度支營田等使檢校工部尚書兼蔡州刺史御史大夫吳少誠に檢校右僕射が加えられました。
貞元13年10月
少誠は勝手に他領域に影響する淘刁河、汝河を開こうとし朝廷に制止されました。
貞元14年9月
少誠は壽州霍山を侵し、鎮遏使謝詳を殺し、領域を広げました。淮西の領域は希烈の時代より大幅に狭く、財政的に困難なため、壽州の茶利を得ようとしたのです。
貞元15年3月
少誠は唐州を侵し、鎮遏使張嘉瑜・監軍邵國朝を殺して、居民千餘を拉致しました。
貞元15年4月
安州刺史伊慎を安黄等州節度使に昇格させ、淮西への牽制としました。
貞元15年8/9月
陳許節度使曲環の死に乗じて少誠は許州臨穎を陥し、許州を包囲しました。
少誠の官爵を削りました。
貞元15年9月
少誠と陳許分割を策していた宣武軍節度使劉全諒が頓死しました。後任の都知兵馬使韓弘は少誠に同じませんでした。
宣武、河陽、鄭滑、東都汝、成德、幽州、淄青、魏博、易定、澤潞、河東、淮南、徐泗、山東。山西、鄂岳軍が少誠を討つために動員されましたが、中心となる招討使はおらず、各鎭から派遣された諸将がばらばらに進軍するという馬鹿げたものでした。
少誠は許州を猛攻しましたが、上官涗・劉昌裔は守り抜き、陳州西華攻撃も大將孟元陽に撃退されました。
貞元15年10月
山東于頔、安黄伊慎、知壽州事王宗與・上官兌・韓弘などが戦勝を上奏しました。もちろん意味のないものです。
貞元15年11月
山南東道節度使于頔は蔡州吳房,・朗山を陥しました。
陳許節度使上官涚は柴籬に少誠軍を破りました。
安黃節度使伊慎は少誠軍を申州鐘山に破りました。
貞元15年12月
諸道軍は大軍でしたが、統帥なくバラバラに進退するだけでした。小殷水で反撃を受けるとたちまち潰乱して、器械・資糧を棄てて退却しました。
貞元16年正月
残った成徳・義武・忠武・河陽四鎮軍も敗北し撤退してしまいました。
貞元16年2月
総指揮をとる者がいないと混乱するという当然の事に気がついた德宗皇帝は、中尉竇文場のお気に入りの左神策行營銀夏節度等使韓全義を蔡州行營招討使とし、陳許節度使上官兌を副とし、十七道兵は皆節度を受けました。全義は勇猛だが軍才なく、宦官達の頤使に甘んずるという政治的將軍でした。
貞元16年4月
全義は出陣しましたが、事ごとに監軍の宦官達の意向を伺い方針が動揺し、暑熱により疾病が増加し、諸軍の將士の士気は低下してしまいました。
貞元16年5月
全義は淮西將呉秀、呉少陽に溵水南/廣利城で大敗し五樓に退きました。
貞元16年7月
安黄伊慎は少誠軍を申州に破りました。
少誠軍は五樓へ進出し、全義軍を大破しました、全義はさらに陳州殷水縣城に退却しました。
貞元16年9月
少誠軍は殷水に迫り、全義は敗走して陳州に退却しました。諸軍は馬鹿馬鹿しくなり勝手に本道に戻ろうとしました。全義は河陽・昭義・義成・河中將を斬って威を示しますが、陳州刺史劉昌裔に入城を拒否されます。
貞元16年10月
少誠は兵を退き蔡州に帰ります。戦闘には完全に勝利しましたが、財政的には得るところは少なく破綻状態でした。一応形式的に謝罪し、朝廷はこれ幸いとばかり赦します。
貞元17年正月
全義は帰還しましたが恥じて朝参を避けました。宦官竇文場は失敗を隠すため、少誠が降ったと稱し、耄碌した德宗皇帝はそれを信じましたが、皇太子や官僚以下は実態をよく知っていました。
李希烈に寵愛されていた少誠は、唐に帰順していた節度使陳仙奇を殺害し自立しました。
疲弊していた朝廷は征討する余力が無く、虔王諒を名目的な申光隨蔡節度大使とし、少誠を留後として継承を認めることになりました。
貞元3年3月
仙奇が、唐朝への忠誠を示すため防秋に派遣していた5千人のうち、4千人が少誠の指嗾を受け無断帰国しました。途中諸鎮に迎撃され蔡州にたどりついたのは50人にすぎませんでした。少誠はその少なさに激怒してすべて殺しました。
貞元3年5月
申州刺史張伯元、判官鄭常等が、反唐的な少誠を逐おうとして失敗し殺されました。
貞元9年12月
宣武の軍乱に介入しようとし、李萬榮に一蹴されました。
貞元12年1月
申光蔡度支營田等使檢校工部尚書兼蔡州刺史御史大夫吳少誠に檢校右僕射が加えられました。
貞元13年10月
少誠は勝手に他領域に影響する淘刁河、汝河を開こうとし朝廷に制止されました。
貞元14年9月
少誠は壽州霍山を侵し、鎮遏使謝詳を殺し、領域を広げました。淮西の領域は希烈の時代より大幅に狭く、財政的に困難なため、壽州の茶利を得ようとしたのです。
貞元15年3月
少誠は唐州を侵し、鎮遏使張嘉瑜・監軍邵國朝を殺して、居民千餘を拉致しました。
貞元15年4月
安州刺史伊慎を安黄等州節度使に昇格させ、淮西への牽制としました。
貞元15年8/9月
陳許節度使曲環の死に乗じて少誠は許州臨穎を陥し、許州を包囲しました。
少誠の官爵を削りました。
貞元15年9月
少誠と陳許分割を策していた宣武軍節度使劉全諒が頓死しました。後任の都知兵馬使韓弘は少誠に同じませんでした。
宣武、河陽、鄭滑、東都汝、成德、幽州、淄青、魏博、易定、澤潞、河東、淮南、徐泗、山東。山西、鄂岳軍が少誠を討つために動員されましたが、中心となる招討使はおらず、各鎭から派遣された諸将がばらばらに進軍するという馬鹿げたものでした。
少誠は許州を猛攻しましたが、上官涗・劉昌裔は守り抜き、陳州西華攻撃も大將孟元陽に撃退されました。
貞元15年10月
山東于頔、安黄伊慎、知壽州事王宗與・上官兌・韓弘などが戦勝を上奏しました。もちろん意味のないものです。
貞元15年11月
山南東道節度使于頔は蔡州吳房,・朗山を陥しました。
陳許節度使上官涚は柴籬に少誠軍を破りました。
安黃節度使伊慎は少誠軍を申州鐘山に破りました。
貞元15年12月
諸道軍は大軍でしたが、統帥なくバラバラに進退するだけでした。小殷水で反撃を受けるとたちまち潰乱して、器械・資糧を棄てて退却しました。
貞元16年正月
残った成徳・義武・忠武・河陽四鎮軍も敗北し撤退してしまいました。
貞元16年2月
総指揮をとる者がいないと混乱するという当然の事に気がついた德宗皇帝は、中尉竇文場のお気に入りの左神策行營銀夏節度等使韓全義を蔡州行營招討使とし、陳許節度使上官兌を副とし、十七道兵は皆節度を受けました。全義は勇猛だが軍才なく、宦官達の頤使に甘んずるという政治的將軍でした。
貞元16年4月
全義は出陣しましたが、事ごとに監軍の宦官達の意向を伺い方針が動揺し、暑熱により疾病が増加し、諸軍の將士の士気は低下してしまいました。
貞元16年5月
全義は淮西將呉秀、呉少陽に溵水南/廣利城で大敗し五樓に退きました。
貞元16年7月
安黄伊慎は少誠軍を申州に破りました。
少誠軍は五樓へ進出し、全義軍を大破しました、全義はさらに陳州殷水縣城に退却しました。
貞元16年9月
少誠軍は殷水に迫り、全義は敗走して陳州に退却しました。諸軍は馬鹿馬鹿しくなり勝手に本道に戻ろうとしました。全義は河陽・昭義・義成・河中將を斬って威を示しますが、陳州刺史劉昌裔に入城を拒否されます。
貞元16年10月
少誠は兵を退き蔡州に帰ります。戦闘には完全に勝利しましたが、財政的には得るところは少なく破綻状態でした。一応形式的に謝罪し、朝廷はこれ幸いとばかり赦します。
貞元17年正月
全義は帰還しましたが恥じて朝参を避けました。宦官竇文場は失敗を隠すため、少誠が降ったと稱し、耄碌した德宗皇帝はそれを信じましたが、皇太子や官僚以下は実態をよく知っていました。
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