唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

徐州 龐勳の乱 1

2022-12-20 08:04:09 | Weblog
咸通3年王式が徐州武寧軍の牙軍-銀刀軍を誅滅したあと、その残党は地方に散り、群盗と結びついて治安が悪化しました。牙軍を失った徐州軍では到底制圧はできません。

そこで咸通5年草賊達を徴募して新軍を作り、雲南蠻の侵攻に備えて桂管・邕管へ派遣しました。それにより群盗の勢力を弱め、外寇を防ぐ一石二鳥の政策でした。

本来は派遣の期間は3年で、故郷へ復帰できるはずでした。ところが現地の事態の悪化もあり派遣は6年に及び、徐州観察使崔彦曾の幕僚達は経費をけちるために、さらに1年の延長を通告しました。彦曾は官僚貴族上がりで下級士卒への思いやりなどカケラもありません。

もともと群盗あがりの都虞候許佶・軍校趙可立・姚周・張行實達は家族を思い激怒しました。

まずい事に桂管觀察使李叢は湖南に移り、新使はまだ赴任していませんでした。

咸通9年7月
桂管の派遣軍500人は蜂起し、許佶等は將王仲甫を殺し、糧料判官龐勳を都頭として勝手に帰郷し始めました。

湘潭、衡山兩縣を寇掠して千人に増加しました。

龐勳の前歴についてはなんの記録もありません。泗州軍の判官とだけ言われます。

咸通9年8月
後ろめたい朝廷は、高品[員外の宦官で、検校官を持っています]張敬思を派遣し、罪を問わずに徐州へ帰ることを許しました。

そのため乱軍は寇掠を止め、帰郷に向かいました。

咸通9年9月
龐勳達が湖南に達すると、監軍の策謀により武装を解除されました。

山東節度使崔鉉は警備を厳重にし領域内にいれませんので、勳達は揚子江を下ります。
勳達は朝廷が騙そうとしていると感じて、私財を投じて再武装しました。

淮南では都押牙李湘が討とうとしますが、節度使令狐綯は怯懦ですのでひたすら無事に通過させようとしました。

泗州に到り再び蜂起しようとしますが、刺史杜慆の警戒が厳しくできません。

徐城縣に到り、龐勳は「我々は帰郷し家族と再会したいだけだが、朝廷は誅滅しようとしている。蜂起したら仲間の兵も蜂起し自立できる」と璬して蜂起を宣言しました。一部は同ぜず逃亡しようとしましたが殺されました。

咸通9年10月
彦曾は征討に決し、將元密に徐城を攻めさせましたが、すでに龐勳等は宿州に向かっておりもぬけの殻でした。

龐勳は簡単に宿州を陥し、攝州事觀察副使焦璐を逐い、周辺の百姓に呼びかけて寇掠させ、強壮を強制徴募して軍容を拡大させました。

元密は宿州を囲みましたが、龐勳の計にかかり大敗し、密も敗死しました。

龐勳は徐州が空虚であることを知り、6~7千人に増えた衆とともに城を攻め簡単に陥しました。
彦曾を捕らえ、その幕僚達を殺しました。

龐勳は王智興の先例をひき節度使に任用を求めました。

劉行及は濠州を簡単に陥し、刺史盧望回を捕らえ、占拠しました。

李圓は泗州を攻めましたが、刺史杜慆は守り抜きました。

龐勳軍は周囲の遊民・草賊を集め、たちまち数万の大軍となりました。

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