宦官魚朝恩は安史の乱において觀軍容使として監軍の職に就き、実戦に参加し軍功がありました。また李輔國などともに郭子儀等武臣を誣告して陥れることもありました。
乱後も陝州に駐屯し神策軍を指揮していました。
廣徳元年10月
吐蕃の侵攻により代宗皇帝は京師を棄てて華州に逃亡した時、朝恩は陝州神策軍を引き連れ代宗を保護し、京師に戻させました。そして崩壊した親軍の代わりに神策軍をあて、天下觀軍容宣慰處置使としてその兵権を握りました。
朝恩は部將皇甫温を陝州刺史、周智光を華州刺史に配置しました。
大暦初期唐朝は河中の郭子儀、神策の魚朝恩、宰相元載の三頭が握って対立し、代宗皇帝はそのバランスのうえに立つという不安定な状況でした。
一応学問もあった朝恩は増長して国子監[大学]で宰相以下の群臣を前に講義を行いました。
その時に宰相を揶揄することもあり、宰相王縉は激怒しましたが、元載は薄笑いを浮かべ、朝恩は警戒しました。
朝恩と郭子儀は対立し、子儀父の墓が荒らされるという事件では、朝恩が黒幕ではないかと疑われました。しかし徐々に対立は解消し、軍權の結束を懼れる皇帝や元載は危惧していきました。
大曆4年2月
朝恩は京兆好畤・鳳翔麟游・普潤縣を神策軍の領有とさせました。
大暦5年
朝恩は代宗皇帝を威圧し、宰相達を愚弄するなど驕慢となり、配下の神策都虞候劉希暹や都知兵馬使王駕鶴は、坊市の不良少年等を使い、冨家を罪に落として財を神策軍に取り込んでいました。
しかし代宗皇帝や宰相元載も兵権を握られているためいかんともできない状況でした。
元載は朝恩を除くため策動し、朝恩側近の周皓や、陝虢節度使皇甫溫を内応させました。
大暦5年2月
鳳翔節度使李抱玉を山西に移し、皇甫溫を鳳翔節度とし、興平、武功、天興、扶風縣を神策軍に与えました。これらは朝恩を喜ばせ油断させる方策でした。
大暦5年2/3月
劉希暹は朝恩に警戒を呼びかけましたが、朝恩は自覚せず入朝し、代宗と抗論し、周皓等に殺害されました。そして自殺したことにして葬儀を行わせました。
兵乱が起きないように劉希暹や王駕鶴に加官しましたが、希暹は不満を持ち9月に殺されました。
朝恩の誅殺を企画した宰相元載が驕慢となっていきました。大暦12年に誅されることになります。
乱後も陝州に駐屯し神策軍を指揮していました。
廣徳元年10月
吐蕃の侵攻により代宗皇帝は京師を棄てて華州に逃亡した時、朝恩は陝州神策軍を引き連れ代宗を保護し、京師に戻させました。そして崩壊した親軍の代わりに神策軍をあて、天下觀軍容宣慰處置使としてその兵権を握りました。
朝恩は部將皇甫温を陝州刺史、周智光を華州刺史に配置しました。
大暦初期唐朝は河中の郭子儀、神策の魚朝恩、宰相元載の三頭が握って対立し、代宗皇帝はそのバランスのうえに立つという不安定な状況でした。
一応学問もあった朝恩は増長して国子監[大学]で宰相以下の群臣を前に講義を行いました。
その時に宰相を揶揄することもあり、宰相王縉は激怒しましたが、元載は薄笑いを浮かべ、朝恩は警戒しました。
朝恩と郭子儀は対立し、子儀父の墓が荒らされるという事件では、朝恩が黒幕ではないかと疑われました。しかし徐々に対立は解消し、軍權の結束を懼れる皇帝や元載は危惧していきました。
大曆4年2月
朝恩は京兆好畤・鳳翔麟游・普潤縣を神策軍の領有とさせました。
大暦5年
朝恩は代宗皇帝を威圧し、宰相達を愚弄するなど驕慢となり、配下の神策都虞候劉希暹や都知兵馬使王駕鶴は、坊市の不良少年等を使い、冨家を罪に落として財を神策軍に取り込んでいました。
しかし代宗皇帝や宰相元載も兵権を握られているためいかんともできない状況でした。
元載は朝恩を除くため策動し、朝恩側近の周皓や、陝虢節度使皇甫溫を内応させました。
大暦5年2月
鳳翔節度使李抱玉を山西に移し、皇甫溫を鳳翔節度とし、興平、武功、天興、扶風縣を神策軍に与えました。これらは朝恩を喜ばせ油断させる方策でした。
大暦5年2/3月
劉希暹は朝恩に警戒を呼びかけましたが、朝恩は自覚せず入朝し、代宗と抗論し、周皓等に殺害されました。そして自殺したことにして葬儀を行わせました。
兵乱が起きないように劉希暹や王駕鶴に加官しましたが、希暹は不満を持ち9月に殺されました。
朝恩の誅殺を企画した宰相元載が驕慢となっていきました。大暦12年に誅されることになります。
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