四月,甲寅,姜公輔罷。
自尊心の強い德宗は一応自省はしたが、事ごとに陸贄・姜公輔に諫言されること
に憤激し、公輔を罷免した。贄は政策立案者として使い続けるしかなかった。
德宗は非常に扱いにくい人物であった。
四月、涇原兵馬使田希鑒殺節度使馮河清,自稱留後。
前節度使姚令言が反した時、留守部隊である留後馮河清は唐朝についた。
しかし内部に朱泚や令言の党も多く、希鑒は令言の誘いに乗って蜂起し
泚についた。
四月壬辰,車駕至梁州。
山西は貧寒の地であったが、節度使嚴震は鋭意聚斂して德宗をもてなした。
そこで遠隔地の西川成都への退避はとりやめになった。
四月庚戌,渾瑊は武功で朱泚軍と戦い、苦戦したが吐蕃の来援を得て勝利した。
五月丙子,昭義李抱真、成德王武俊が朱滔を經城に大破する。
朱滔は魏博田緒を攻めたが、魏州・貝州は必死に防衛し、攻めあぐねていた。
王武俊は滔が余りに巨大化し自領を併呑することを怖れて、昭義李抱眞と結び、
騎兵中心の武俊・弓兵中心の抱眞の共同軍は、經城に来援した回紇の騎兵を撃破
し、突出した滔軍は総崩れになった。
滔はすべての占領地を捨てて幽州に遁走した。
五月壬辰,尚可孤や李晟が京師近郊で朱泚軍を破る。戊戌,京師を回復。
李晟は京師を包囲攻撃し、泚軍は力戦したが総崩れになり、泚は令言等とともに
京師を棄て涇原に奔った。
自尊心の強い德宗は一応自省はしたが、事ごとに陸贄・姜公輔に諫言されること
に憤激し、公輔を罷免した。贄は政策立案者として使い続けるしかなかった。
德宗は非常に扱いにくい人物であった。
四月、涇原兵馬使田希鑒殺節度使馮河清,自稱留後。
前節度使姚令言が反した時、留守部隊である留後馮河清は唐朝についた。
しかし内部に朱泚や令言の党も多く、希鑒は令言の誘いに乗って蜂起し
泚についた。
四月壬辰,車駕至梁州。
山西は貧寒の地であったが、節度使嚴震は鋭意聚斂して德宗をもてなした。
そこで遠隔地の西川成都への退避はとりやめになった。
四月庚戌,渾瑊は武功で朱泚軍と戦い、苦戦したが吐蕃の来援を得て勝利した。
五月丙子,昭義李抱真、成德王武俊が朱滔を經城に大破する。
朱滔は魏博田緒を攻めたが、魏州・貝州は必死に防衛し、攻めあぐねていた。
王武俊は滔が余りに巨大化し自領を併呑することを怖れて、昭義李抱眞と結び、
騎兵中心の武俊・弓兵中心の抱眞の共同軍は、經城に来援した回紇の騎兵を撃破
し、突出した滔軍は総崩れになった。
滔はすべての占領地を捨てて幽州に遁走した。
五月壬辰,尚可孤や李晟が京師近郊で朱泚軍を破る。戊戌,京師を回復。
李晟は京師を包囲攻撃し、泚軍は力戦したが総崩れになり、泚は令言等とともに
京師を棄て涇原に奔った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます