元年 西暦762年
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建丙月、李光弼拔許州,擒史朝義所署穎川太守李春;丙午,戰于城下,又破之。
光弼も順調に史朝義軍を破り河南を回復していきました。
建丙月戊申,平盧節度使侯希逸于青州北渡河而會田神功、能元皓于兗州。
遼東半島にあった營州平盧軍は唐朝に付き、孤立しながら安史の党と戦ってきましたが、耐えかねて軍民を引き連れて渤海湾を渡り山東半島に入りました。そして以前に派遣していた神功軍と合流しました。淄青平盧軍節度使の始まりです。
建卯月癸丑,河東軍亂,殺其節度使鄧景山,都知兵馬使辛雲京自稱節度使。
文官景山は淮南節度での失態を罰せられることもなく河東節度になりましたが、統制好きのため武官の反感を買い殺されました。
建卯月乙丑,河中軍亂,殺都統李國貞及其節度使荔非元禮。
文官國貞では統制ができず、軍糧の欠乏もあり軍士が反乱を起こしました。
建卯月庚午,敦子儀知朔方河中北庭潞儀澤沁節度行營興平定國軍兵馬副元帥。
肅宗は慌てて敬遠していた郭子儀を登用し鎮圧を命じました。当時、肅宗は重病でしたが宦官李輔國と対立する子儀は皇帝からの直接委任を得るため謁見を求めました。
子儀が赴任すると軍士は直ちに帰服し、河東辛雲京も軍乱を率先して鎮圧しました。
肅宗は山東十州節度來瑱を淮西十五州節度に遷しました[栄転に見えますが、荒廃した河南淮西です]、後任には崔戎を任じます。ところが瑱が赴任名中途で不服を言い復帰を求めると。定見のない肅宗はそれを認めます。そして戎は敗北し殺されるのです。
建巳月甲寅,玄宗上皇崩が崩御します。七十八歳でした。甲子,肅宗もまた崩御します。
張皇后と李輔國の間で実権争いが起き輔國が勝利し、皇后は殺されます。輔國は皇太子[代宗]を擁立し司空兼中書令となりました。宦官専横の唐朝でも宰相となったのは輔國だけです。
肅宗皇帝は個人としては悪業はありませんが、凡庸で優柔不断で、他人から操作されて動く人物です。そして大抵の場合は判断を誤りました。これでよく国が亡ばなかったものだと思われますが、唐朝の寿命がまだあったのでしょう。
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建丙月、李光弼拔許州,擒史朝義所署穎川太守李春;丙午,戰于城下,又破之。
光弼も順調に史朝義軍を破り河南を回復していきました。
建丙月戊申,平盧節度使侯希逸于青州北渡河而會田神功、能元皓于兗州。
遼東半島にあった營州平盧軍は唐朝に付き、孤立しながら安史の党と戦ってきましたが、耐えかねて軍民を引き連れて渤海湾を渡り山東半島に入りました。そして以前に派遣していた神功軍と合流しました。淄青平盧軍節度使の始まりです。
建卯月癸丑,河東軍亂,殺其節度使鄧景山,都知兵馬使辛雲京自稱節度使。
文官景山は淮南節度での失態を罰せられることもなく河東節度になりましたが、統制好きのため武官の反感を買い殺されました。
建卯月乙丑,河中軍亂,殺都統李國貞及其節度使荔非元禮。
文官國貞では統制ができず、軍糧の欠乏もあり軍士が反乱を起こしました。
建卯月庚午,敦子儀知朔方河中北庭潞儀澤沁節度行營興平定國軍兵馬副元帥。
肅宗は慌てて敬遠していた郭子儀を登用し鎮圧を命じました。当時、肅宗は重病でしたが宦官李輔國と対立する子儀は皇帝からの直接委任を得るため謁見を求めました。
子儀が赴任すると軍士は直ちに帰服し、河東辛雲京も軍乱を率先して鎮圧しました。
肅宗は山東十州節度來瑱を淮西十五州節度に遷しました[栄転に見えますが、荒廃した河南淮西です]、後任には崔戎を任じます。ところが瑱が赴任名中途で不服を言い復帰を求めると。定見のない肅宗はそれを認めます。そして戎は敗北し殺されるのです。
建巳月甲寅,玄宗上皇崩が崩御します。七十八歳でした。甲子,肅宗もまた崩御します。
張皇后と李輔國の間で実権争いが起き輔國が勝利し、皇后は殺されます。輔國は皇太子[代宗]を擁立し司空兼中書令となりました。宦官専横の唐朝でも宰相となったのは輔國だけです。
肅宗皇帝は個人としては悪業はありませんが、凡庸で優柔不断で、他人から操作されて動く人物です。そして大抵の場合は判断を誤りました。これでよく国が亡ばなかったものだと思われますが、唐朝の寿命がまだあったのでしょう。
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