恵昭太子の死後、後継の皇太子選定は紛糾します。有力な宦官吐突承璀は澧王惲を推薦します、能力的にはこちらが高かったようですが、結局憲宗は父が郭子儀の子曖、母が昇平公主である懿安皇后の子遂王恒[穆宗]を選びます。穆宗は無能であり、唐朝の中興を成し遂げた名君の憲宗は廃することも考えていますが、元和15年宦官により突然殺されたことにより即位することができました。即位時に澧王と吐突承璀は粛清されました。
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